創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

アーカイブ:「熾火」

(01)

 まだ夜も明け切らない頃、疲れの残っている身体を持て余していた谷中昌行は、このまま起きていようかと考えていた。すると、部屋のドアを誰かが叩いたような気がした。その主は、父の義和だった。
 「明日までに今月分の返済があるんだが、すまない、10万円ほど用立ててはくれまいか。」
 何だと? 昌行は耳を疑ったが、それ以上に、新築して10年ほどになろうとしているタニナカベーカリーの店舗兼住居の雑居ビルの返済が、それほどまでに逼迫していることに驚いた。いや、そうではない。昌行は谷中家の財政の窮状を知っていたはずなのだ。
 山手線に接続する私鉄沿線の商店街で、義和と妻・峰子は、先代から続くタニナカベーカリーを手堅く経営していたのだが、狂乱地価の時代のうねりに飲み込まれ、借地権の更新に合わせて大きな賭けに打って出た。当初はあくまでも「増改築」程度の計画だったところだが、昌行の知らぬ間に、猫の額ほどの土地に5階の「ビル」を建てる計画に膨れ上がっていた。

 その図面を見せられるまでの間、信金や銀行の支店長クラスが日参し、「どうか私どもにご融資をさせてください」と平頭していた。それを見聞きしていた昌行は、数十年に渡って地道に商売をしていた父母を誇らしく思っていたことは間違いなかった。しかし、大学院への進学も視野に入れていた昌行は、その不安をついに伝えることができないままでいた。
 数回の院試を経たものの、結局は進学を取りやめた昌行は、母校の桐華大学近くに借りていたアパートから、実家の空き室に戻っていた。新築なったタニナカベーカリーの売上が好調だった時期は、10年もなかったかもしれない。階上に入っていたテナントが出ていった後の契約は決まらず、苦肉の策としてカレーショップを開いたことは傷口を更に広げただけではない。そのカレーショップを切り盛りしていた次男の昇が、何とも診断名のつかぬ病に倒れていたのだった。にも関わらず、昌行はサプライシステムズの勤務を続けていたのだった。そう、「にも関わらず」。

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(02)

 正直なところ、月にいくら返済をしているのか、そのためにいくらの売上げが必要であるのかを知らずに昌行は過ごしていた。より正確には、知ろうとはしていなかったのだ。今日用立てた10万円が、どの程度の足しになっていたのか、もちろん見当もつかなかった。父には父の、自分には自分の人生があり、それぞれに歩んでいると思っていたのだが、ひとつ所に住まわっている以上、それは思い込みに過ぎないことを昌行は感じるようになった。
 現金で10万円を用立てるには、さすがに銀行に立ち寄る必要があったため、昌行はその日、出社が遅れることを申し入れた。10万円を父に渡して出社した昌行は、上司の谷津に声をかけられた。
 「谷中くん、よりによってこんな日に遅刻とは君らしくないな。まあいい。あとで社長から話があると思うので、そのつもりでいておいてな。私も同席するから。」
 やれやれ。何があったって言うんだ。谷津部長からの一言を、怪訝な面持ちで昌行は聞いていた。社会人としてのスタートが遅かった昌行にとって、このサプライシステムズは2社めの勤務先だった。この社で昌行は、大手のパソコンメーカーのユーザーサポート業務の一切を谷津の下で取り仕切っていた。この部門は、サプライシステムズ社を実質的に支えていたと言っていい。
 「失礼します、谷中です。今朝方は出社が遅れてしまいまして、大変申し訳ありませんでした。」
 「急な話で申し訳ないんだが、谷中くん、君には新設部門の長として社外に常駐してもらおうと考えているんだ。君の後任には、須永くんを充てようと思う。」
 谷津は昌行に語りかけた。谷津が話し終えるのを待って、安斉社長が話を継いだ。
 「谷中くん。サポート部門をここまで育ててくれたことを評価し、感謝もしている。もう3年目にもなることだし、次の部門を手掛けてはもらえないかな。」
 「過ぎた評価をいただき、ありがとうございます。しかしながら、単刀直入に伺います。この異動、何か別の意図があるようにも思えるのですが。差し支えなければ、それを聞かせてはいただけませんか。」
 安斉からの目配せを確認し、谷津が口を開こうとしたが、それを制して安斉が語った。
 「実はね・・・、君が育ててくれたサポート部門は1年後に閉鎖せざるを得なくなったんだよ。」
 昌行は言葉を失った。

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(03)

 2社めの勤務先としてサプライシステムズへ昌行が転職したのは、1996年4月のことだった。「30歳程度まで」とあった求人広告に応募した昌行は、既に31歳だったが、3月が誕生月なので、新年度には32歳になってしまうことになる。それでも何とか滑り込んだ昌行は、拡張されるというサポート部門への配属を希望した。
 1995年11月に、M社のオペレーションソフトが発売されると、個人向けパソコンの市場が爆発的に拡大した。それと併せるように、パソコンメーカー各社にとっては、ユーザー問い合わせの窓口拡大が急務となっていた。サプライシステムズは、H社のサポート窓口業務の一部門の受託に成功し、部門を急拡大しているさなかにあった。
 それからほぼ3年が経った。問い合わせ時間の拡張や、回線数の増強等、H社の要望には、概ね応えてきた。しかし、H社のサポート体制が一新されることが決定され、サプライシステムズが受託していた部門は、統廃合されることとなったのだ。昌行には、一部門の閉鎖が現実になるとは、考えが及んでいなかった。
 「それならばせめて・・・。」
 昌行は、自分の手で拡張した部門の幕引きは、自分の手でしたいと思ったのだ。しかしその仕事は、後輩の須永陽平が担うことになっていた。ぼくが幕引きするとなると、情が絡んでくると判断されたのかな、須永さんには申し訳ないことになったなと思いながら、昌行は自席に戻った。
 昌行が自席に戻るのを、須永は待っていたようだった。
 「谷中さん、ちょっと。」
 「そうですね、手短に話しておきましょうか。
 入社の年次では昌行が先だったが、須永は昌行より年齢が上だったので、昌行は後輩扱いはせずに敬語で接していた。須永とは、単に業務を引き継ぐことだけではなく、サポートを担当している派遣社員たちが不安にならないようにすることを打ち合わせなければならないだろう。どうやら受けた指示以外にも、やるべきことは多そうだなと昌行は思った。

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(04)

 定例の部門間会議のため、昌行は常駐先からサプライシステムズの本社に顔を出した。急な異動から、既に8か月が経つ。昌行が本社に顔を出すその度に、後任の須永の評判が、派遣スタッフの間で悪くなっていることを昌行は耳にしていた。谷中さんがいてくれていたら、こんな風にはなっていなかったのに、と言われているようだった。
 しかし、須永の評判がよくないのは、ひとり須永だけの問題ではなかった。別の社員がうっかり、この部署は閉じられる、会社も危ないらしいと話してしまったことで、派遣スタッフの間にも不安が広がったからだ。
 「須永さん、寡黙だからなあ。」
 会議を終えて、昌行は直帰した。もう自分には何もできないことが、昌行にはつらく感じられた。
 異動先で昌行を待っていたのは、やはりユーザー対応の窓口業務ではあったが、いわゆるクレーム対応と呼ばれるものが相当の比率を占めていた。一件一件に、いや、一瞬一瞬に異なる判断と決定が求められる。
 それに加えて、昌行は年下の社員たちの案件を引き取った個別対応が日課となってしまっていた。残業時間も長くなる傾向にあった。
 一方、谷中家にあっても、昌行は微妙な立場であった。義和が返済の用立てを依頼してきたのは、あの時以降一度もなかったが、家族たちの心はささくれだっていた。昌行は帰宅すると、タニナカベーカリーとカレーショップの新商品やセールなどのアイディアを、家族たちと語り合った。しかし、起死回生となるようなアイディアなど出しようもない。売上げが低迷してきていたのは、谷中家だけではなく、それは商店街全体に及んでいたのだ。こうして、昌行は仕事と家族との間で、確実に疲弊していった。
 大きな事件は、2000年2月に起こった。1999年末に閉鎖したサポート部門にいた契約社員の一人が、自死したのだ。あくまでも個人の問題が原因と伝え聞いていたが、斎場で必死に案内に当たっていた須永の表情は、何かを物語っているものとして、昌行の目に焼きついていた。この頃には、既に昌行は業務に関わるH社の新製品情報に関心が持てなくなっていた。また、この前調子がよかったのはいつだったか、覚えがないんだよなあ、と同僚を笑わせてみるものの、その笑顔には力が感じられないようになっていた。

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(05)

 2001年となり、世紀をまたいだことになるが、昌行の置かれている状況は変わることはなく、疲労は募っていった。6月のある朝、目を覚ましたものの、昌行はそのことを強く後悔した。なぜ、目が覚めてしまったんだろう、あのまま目が覚めなければよかったのに・・・。そう感じたのだろうか。いや、そうではない。そのように感じることすらできていなかった。全くの虚無感。戸惑うことすらできず、昌行は携帯電話の電源を切り、固定電話のモジュラーケーブルを引き抜いた。何もしたくないとさえ、意志できなかったのだ。その日から昌行は、一週間無断欠勤を続けた。
 それから何日が経ったのか、昌行は覚えていないが、母の峰子から、上司の谷津が訪ねてきたことを告げられた。社としては、昌行を休職扱いとするので、一刻も早く産業医の診察を受けてほしいということだった。しかし、昌行が電車で一時間をかけて、その産業医を訪ねることができたのは、実に一か月を経てからのことだった。訪ねた先では、即座にメンタルクリニックの受診を指示された。その足で向かったクリニックでは、「うつ状態」と診断され、抗うつ剤が処方されることになった。
 2000年からの数年間、「こころ」を病む勤労者が激増していた。その当時は、「うつは心の風邪」という、いわばキャンペーンが張られていたようなものだった。「風邪」であるというのは、いくつかの含意があるように昌行には思われた。まず、風邪であるので誰もがかかりうる病気であるが、適切な治療が行われば回復が可能であること、しかしその一方で、死に至る病も含めた「万病の元」でもあるということを、昌行は感じ取っていた。「死に至る」とは、自死のことである。
 昌行は、精神科の臨床について、いささかの関心があった。それは、弟の昇が「精神病」あるいは、精神分裂病と当時呼ばれていた統合失調症の疑いがあることと関係があった。昌行は、自分の症状について学習し、脳内の伝達物質のバランスが乱れていることが、この病の原因であると、淀みなく谷津と安斉に説明してみせた。
 しかし昌行は、復職を焦っていた。できる限り早く復職するべきだと考えていたのである。2000年代の始め、サプライシステムズのような中小の企業では、未だメンタルヘルスについての知見は共有されておらず、復職についてのプログラムは未整備の状態であった。結果、昌行の復職は見切り発車と言ってもいいものでしかなかった。加えて、昌行は休職の制度がいかなるものであるかの知識も十分に持っていなかった。制度上では、もっと十分に継続した休職期間が取れたのだが、それを活かし切ることができなかったのである。
 結局のところ、昌行は2001年の5か月間のみ休職をして職場に戻った。サポートの現場からは退いて、社内での教育にあたる部署に配属されたのだが、年度替わりに再び体調を乱し、再度の休職を余儀なくされた。この時、社からは完治してから復職することを言い渡されていた。

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(06)

 2002年4月から、昌行は再度の休職期間にあった。この年、昌行は社内のメンタルヘルスの支援体制が脆弱なことに思い至り、自費で初級産業カウンセラーの講習を受講することを決めていた。半年の間、毎月一回、東京の飯田橋の講習会場で、午前中の座学と午後の演習に取り組むことにしたのだ。
 座学は大教室で、演習は小グループに別れ、それぞれの小教室で10名程度の受講者と、2人の指導者とで行われる。午前中の大教室では、隣り合った同士で語り合う姿もあった。同じ勤務先から受講に来ているだろうことが推察された。
 6月、3回目の座学が終わり、昼食に向かおうとする昌行を呼び止める声があった。
 「あの、谷中さんですよね・・・。」
 昌行を呼び止めたのは、学部の3年後輩の千々和雅実だった。
 「10年以上経ってるから、わかりますか? 千々和です。」
 昌行には、すぐにはそうとはわからなかったのだが、桐華大学の英文学科に学んでいた雅実だったのだ。
 「中学の教員、辞めたんです。今はフリースクールに勤めてて。フリースクールってご存知ですか。でも、どうして谷中さん、こんなところに来てるんですか?」
 手短な挨拶を交わしたあと、雅実は午後の演習後に落ち合うことを昌行と約し、同僚らしき女性たちと昼食に向かっていった。事情を把握しきれないまま、昌行も一人昼食に出かけていった。

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 この講習では、カール・ロジャーズの来談者中心療法を主として学ぶことになっていた。コールセンターという心理的に負荷の高い職場では、メンタルヘルスケアが不可欠だと昌行は感じていた。それを上長たちに具申することもなく、彼は受講を決めたのである。
 昌行は心理の臨床についての関心が元々あった。木村敏や河合隼雄らの著作を数冊読んでいたものの、今回のロジャーズの名前は、初めて見聞するものだった。
 コールセンターの業務に高い適応力を見せていた昌行は、この演習でもその能力を発揮した。本当は経験者ではないんですかと、受講生も指導者たちも、昌行を称えるようになっていた。そこに加えて、この日は、思いがけない再会があった。演習を終えた昌行は、雅実と落ち合うため、約しあったコーヒーショップへ向かった。

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 「うつ病なんですね・・・。お辛かったでしょう。」
 「さっそく勉強したことを応用してるんですね。」
 カウンセリング講習で学んだ「共感」を見事に示した雅実を見て、昌行から笑顔がこぼれた。
 「あら、ホントですね。でも谷中さん、自腹だったんですね。えらいなぁ。」
 昌行から発症までのおおよそを聞いた雅実はこう続けた。
 「それで、私は谷中さんに何ができるんですか。何をすればいいの?」
 虚を突かれた昌行は、言葉を失ったが、時々こうして会ってくれるとうれしいと継いた。
 「それなら、お安い御用ね!」。
 昌行は声を上げて泣きたくなった。

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(07)

 自身がメンタルを患った経験を活かして、職場環境を向上させたいと昌行は考えていた。サポートなどのコールセンター業務は、心理的・感情的な負荷が大きい。単に顧客に対する愚痴を言い合うだけではなく、もっと上手に仕事とつき合えないかと昌行は考えたのだ。彼が学んでいた産業カウンセラーとは、職場にあって産業医への「つなぎ役」を果たすものと考えていい。事前に黄信号を見つけて、早めに適切な対処をしようというのが、その職責の一つである。
 2000年前後には、臨床心理士の制度化が本格化するなど、心理職についての大きな動きがあった。産業カウンセラーと言っても、立場上では補助的なものと考えてよく、勤務者に精神科やメンタル・クリニックの受診を助言する程度のことがせいぜいであった。その意味では、昌行はこの資格には過大とも言える期待を抱いていたと言ってもよかった。昌行は、よくも悪くも真面目な理想家だったのだ。この制度を職場で活用できれば、自分がうつ病になった経験も活かせるものと考えていた。
 一方、雅実は卒業した翌年に、故郷の長崎で教職に就いていた。1990年のことである。しかし、雅実もまた重責の下で体調を崩してしまう。知己を得て、神奈川のフリースクールに移ったのは、昌行がサプライシステムズに就いた1996年のことだった。昌行には、念願通りに教職に就いている雅実がうれしかった。
 「谷中さん、勉強はどうですか?」
 「この前、ロールプレイングでクライアント役の人の悩みを解決しちゃったよ。」
 そう言って、昌行は笑ってみせた。実際、昌行は実習で高い適応力を見せていた。それは、コールセンターの業務で受けていた訓練が生きていたのかもしれない。昌行は、知らないうちに他人に話を聞く力が身についていたのだ。
 「このままプロになっちゃうのもいいかもしれませんね。」
 「いやいや、カウンセラーの開業だなんて、とてもとても。それに復職しても、この実習を活かせるとは限らないしね。」
 「いいカウンセラーさんになれそうな気がするんですけどね。もったいないなあ。」
 「ありがと。」
 昌行からは笑みがこぼれ、その心を温かいものが満たしていた。

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 2002年冬。その産業カウンセラーの資格試験が実施された。筆記試験から日を置いて、雅実は午前中、昌行は午後の実技試験を受験した。
 「お待たせしました。」
 「ちょっと待ったかな。どうでしたか?」
 「上ずった答えしかできなかった。『自分の経験を活かして、メンタルヘルスの向上に役に立ちたいです』なんて言っちゃったしね。筆記はよくできたんだけどなあ。千々和さんはどうなの?」
 「わかりませんよ・・・。」
 「あのね。」
 「何でしょう?」
 「今、職場に復職を打診しているんだ。」
 雅実は、うれしそうにして見せたが、口には出さない不安も抱えていた。

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(08)

 明けて2003年、2月に資格試験の結果が通知されたものの、昌行は合格には至らなかった。同期の受講グループの仲間は残念がり、受験資格がある来年の再受験を勧めてくれた。
 昌行の心身の調子は、相当程度に安定しているように見えた。年末の試験に際して雅実に告げてあったように、昌行は職場に再度の復職を打診していた。今度こそ・・・。昌行には期するものがあったが、その復職の決定は、いささか独断に近いものと言わざるを得なかった。
 2003年度になって、昌行は再度の復職を果たしたが、彼を待っていたのは別のサポート窓口の対応要員としての辞令だった。昌行は、半年と経たず変調に見舞われた。その業務は、対応件数の出来高によって売上げが上下する契約だったので、対応要員たちには、一件でも多い対応件数がサプライシステムズ社から求められていた。
 昌行は、その窓口の構成メンバーの中にあっては、年長の部類だった。一定の勤続年数があり、「ベテラン」と見なされていたため、十分な事前の研修もなされなかった。
 ある日、年下の上長から、対応件数のことで苦言が呈された。
 「谷中さんくらいのベテランで、会社の事情もおわかりのお立場なら、対応件数に見合った給与に引き下げてもらうような打診があってもしかるべきと思うんですけどねえ。」
 屈辱だった。自身が新人研修を担当した相手から、そのようなことを言われるとは。この日を境にして、昌行は通勤の電車の中で、しばしばめまいを感じるようになった。通勤途上で連絡を入れて、欠勤を願い出ることが重なった。
 さらに12月。ついに昌行は社長の安斉に呼び出されることになった。
 「谷中くん、どうだろう。体調もよくないようだし、この際離職して、完治を目指してみるのがいいんじゃないかな。それが君のためなんだと思うんだけどね。」
 口調こそ穏やかだったが、昌行にはいわゆる最後通牒と感じられた。そうだよな、こんなポンコツには用はないよな。
 「お気遣い、ありがとうございます。」
 昌行は2004年1月末で退職した。

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 昌行は、実は6月頃から転職活動も進めていた。確かに再度の休職に入る時、「復職は完治してから」が条件だった。4月の異動については自信がない、再考してほしいと申し入れたものの、復職は完治を意味しているから、是が非でも異動は受け入れてもらうと、はねつけられていたのだ。
 先に退職となってしまった昌行の転職活動は難航した。そのことは、昌行を確実に蝕んでいた。

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(09)

 昌行は、谷中家にあっては三男一女の長男であった。既に病を得ていた次男の昇、デザイン系の専門学校を卒業して、雑誌広告のレイアウトをしていた妹の咲恵に、末弟の滋があった。昌行が職を失った2004年2月には、滋は妻・由美子と住んでいた。また義和の母・光江は施設にあった。
 タニナカ・ベーカリーと、併設されたカレーショップの経営は芳しくなかったものの、綱渡り的に営業は続けられていた。この両店舗は、義和・峰子夫妻と、弟・滋にアルバイト学生で切り盛りされていた。滋の妻・由美子も勤務の傍らで様々なアイディアを捻出して経営をサポートしていた。
 しかし、昌行は自身の病のために、その「蚊帳の外」にあったのだ。そのことは、昌行を疎外していた。義和に頼まれて返済資金の一部を用立てた日から、いつしか3年と数か月が経っていた。
 昇がどうやら統合失調症であるらしいことが否定し難くなっていたのもこの頃だった。当時はまだ「精神病」「精神分裂病」と言われていたが、やがて呼称が「統合失調症」と変わることを、昌行は情報として得ていた。昌行ができる家族へのサポートは、主にこの側面からなされていた。
 谷中家の人びとがある種の限界を自覚したのは、2004年の秋だった。奇行が目立つようになっていた昇が、誰か俺を止めてくれと大声を上げながら、4階の窓に向かって突き進んだのだ。その場に居合わせた滋が羽交い締めにして事なきを得たが、昇の自宅療養は、これ以上続けることはできないと、誰もが思った。幸い、由美子には看護師を務める妹があった。その彼女の助言もあって、昇は精神科に入院することになった。皆が疲弊していた。そして翌2005年、光江が逝いた。

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(10)

 祖母の光江が逝いた。享年91歳なので、もはや大往生と言えるのだが、昌行は自身の病のため、特老に入っていた光江の晩年の記憶はほとんどなかった。かえって、遠ざけてさえいた。
 葬儀は夏だった。そこに集まった谷中姓の人びとが、義和から見た場合の本家筋にあたることを、この時初めて昌行は理解した。気忙しく、かつ気丈に立ち振る舞っていたのは、むしろ峰子であった。義和の弟・秀明に献杯のあいさつをさせ、本家の連中と顔をつないでいたのだった。その峰子に比して、義和や秀明は、何とも頼りなげに昌行には映った。そして、「次」つまり、義和が逝いた時には、自分が峰子に代わって遺族を代表してあいさつするだろうと直感していた。
 さて谷中家は、一家全員が法華経系の仏教団体・桐華教会に入信していたが、中でも光江が熱心な信徒だった。昌行の記憶には、仏壇の前に端座して、静かに「南無妙法蓮華経」の題目を念じていた姿があった。光江には学はないものと昌行には思われたのだが、幼い昌行の鼻炎が治るよう、「鼻の流通がよくなりますように」と常々念じていた姿が思い起こされた。そのおかげとは思えないものの、長じた昌行が鼻炎に悩まされることはなかった。
 「ああちゃん、流通なんて言葉、どこで覚えたんだよ。冷たくして、ごめんな。」
 にぎやかな語らいの場にあって、幼い日と同じ呼び方で、昌行は一人静かに光江に語りかけていた。
 昌行には、初期の胃がんのために入院していた光江に、桐華中学合格の報を携えて、母と見舞ったという記憶もあった。峰子と光江が、この進学については熱心だった。元来「おトラ婆さん」だった光江が、すっかり大人しくなってしまったのは、退院後のことだ。そのような思い出もまた、去来していった。光江の死去は、谷中家にとってはむしろ求心力として作用したことは、間違いなかった。

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 しかし、谷中家の人びとにはこの辺りまでが限界だったのかもしれない。昌行の預かり知らぬところで、ベーカリーの店舗ビルを競売にかける話が進んでいたのだ。義和・峰子夫妻と滋がその話の中心にあったが、朋友党の区議や都議、また、同じ桐華教会の信徒であった弁護士らとの協議が進められていたのだった。もうこれ以上はがんばる必要はない、生活保護の受給を選択することは恥ずかしいことではないと諭されていた。協議の中心課題は、まさにそこにあった。

(11)

 谷中家の4人の兄弟のうち、実に2人が病床にあった。長男の昌行はうつ病が既に5年間回復せず、次男の昇に至っては10年以上も精神病(のちの「統合失調症」)であって、光江の葬儀の時期には精神科病棟に入院していた。谷中家を公私に渡って支援していた人びとは、生活保護の受給を開始してはどうかという点で一致していた。問題は、入院している昇の扱いであり、所帯構成をどうするかという点だったが、昇の退院後に受給が開始できるよう準備を進めることとなった。

 実は、この検討に際しては、昌行は実質的にはほどんど、いや、全く関与していないと言ってよかった。うつの状態が思わしくなく、光江の葬儀に際しても、無理を押して参加したのであった。また、昇は主治医の許可を得て、一時退院しての臨席だった。

 2000年頃からの「うつは心の『風邪』」というキャンペーンの含意は、「風邪」なので「治るもの」という点にあったはずだが、昌行の病状は改善されなかった。同じところを行き来しているように見えていたのだ。派遣登録をしたり、アルバイト要員としてごく短期間働いたことはあったものの、すぐに勤務不能になってしまっていた。そのことは、昌行の自己評価を著しく損ねていった。

 その頃昌行が悟ったのは、日本の社会とは、人を使い捨てるものということだった。「即戦力募集」とは、聞こえはいいが、それは「当社では従業員に教育を施しません」ということと同義だったし、派遣が最先端の働き方であるという思い込ませは、不安定で辞めさせやすい職場へと変貌するきっかけとなっていた。使いたい時にだけ集め、用が済んだらそれで終わりという人材の「材」の字とは、材料の「材」であり、廃材の「材」であると昌行には感じ取られていた。

 昌行が再就職のために奮闘していた頃とは、若くて安くて、不安定(=辞めさせやすい)な人材活用へとシフトしていた時代であった。昌行の時給は、職場を移る毎に減っていったようなものだった。

 やがて昇の退院が決まり、それと前後して競売や退去の日程も決まっていった。転居先を決めるのに尽力したのは、咲恵と滋だった。所帯の構成も、義和・峰子・昇の3人所帯と、昌行の単身所帯とを分けることが決まった。滋はそのまま由美子と暮らし、咲恵も新しくアパートに転居することになっていった。そして2006年3月、弁護士にベーカリーの鍵を渡して、谷中家の人びとは、それぞれの居に移っていった。荷物をまとめる暇はなかった。それはほとんど、夜逃げとも言ってよいものだった。

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(12)

 谷中家の人びとが、かつてベーカリーを営んでいた区内に転居した上で生活保護を受給する生活に入り、一年が過ぎようとしていた。腰の高さほどもある大きさの犬を連れて散歩に出る人びととすれ違うような住宅街にあるアパートの岸野ハイツの一室を昌行は借りていた。周囲には、同じ岸野の表札がかかっている家が並んでいる。大家も岸野姓であった。アパートの管理会社の担当者は、いかにも二代目社長といった風情で、家賃のやり取りも地元の信金の口座への振り込みを指定されていた。つまり、代々住み着いている、この土地の名士たちが住む住宅街ということだ。隣家の人びととは、朝にゴミを出す時あいさつを交わす程度だったが、商店街のしがらみが煩わしかった昌行には、むしろ心地よく感じられていた。昌行の病状は、この頃少なからず安定していたように見えていた。

 弟の昇も、統合失調症特有の幻視があるものの、返済の重圧からの開放感を感じているようだった。滋は少しの間と言って、働きには出ずに気ままに振る舞っていた。咲恵は一人、カード会社のコールセンターで派遣社員として働いていた。

 この前後、義和は白内障の検査や補聴器の調整などで、いささか頻繁に病院に通っていた。2007年の4月のある日、義和たちのアパートを訪れていた昌行は、検査入院することになったと義和に告げられた。

 「最終的には、心臓のバイパス手術が必要らしいんだよ。しばらく入院することになるんだけど、よろしく頼むよ。」

 父の口調は穏やかだった。しかし、その穏やかさに昌行は反感を覚えていた。この一年余り、母の不在時に義和と昇の食事を手配していたのは昌行だったからだ。義和は、この生活に入ってからというもの、家事のほとんどについて手も口も出さなかった。齢七十を超えると、こうも動きが鈍くなるのかと、昌行は呆れていた。

 しかし、昌行をより呆れさせていたのは峰子だった。敬老会に入って、詩吟やらゲートボールやらで、文字通り飛び回っていたからだ。

 その昌行は、この頃はまだ社会復帰への意欲が持続していた。1枚配って5円というチラシのポスティングをしていたが、あまりの辛さと効率の悪さで続けられるものではないと判断した。

 その後義和は、近隣にある中規模の総合病院に入院していったが、日を置かず心臓の専門病院に転院することが決まった。心臓のほぼ半分が壊死していたのだった。

          *       *       *

(13)

 2007年7月、谷中義和は転院して心臓の手術を待っていた。

 「昨日、病室の窓から花火が見えてねえ。」

 足繁く義和を見舞っていた妻の峰子は、アパートで昌行に楽しげに語った。ちょうどその頃、昇は何度目かの再入院をしていた。排尿に手間取っていたため、尿管にカテーテルを挿入したのだが、尿道を傷つけてしまって高熱が出たためもあるが、統合失調症の病状がよくはなかったことが原因である。アパートに移って以来、常に昇を気遣っていた峰子の表情には、開放された穏やかさがあった。

 一方昌行は、2004年に産業カウンセラーの受講者で集まった際、姿を見せなかった雅実について思っていた。その後も連絡が取れていないのだが、昌行にとっての雅実は、3年を経てもなお、単に同窓の後輩である以上の存在であった。その思いはまだ、雅実に伝えられてはいないままだ。しかし、タニナカベーカリーからの退去や、光江の死去などの事情が昌行にはあったので、いつしか連絡が取れていない状況を受け容れてしまうようになっていた。

 峰子を始めとして、昌行の弟妹たちが義和の入院先から呼び出されたのは、8月4日の夕刻だったが、この時は特に何事もなく帰路についた。

 「お父さん、元気そうじゃないか。よかったね。手術って、いつになるんだ。」

 滋が口を開いた。37歳になっているとはいえ、末っ子の滋はこのような時、空気を変えてくれる。「退院したら、温泉にでも行きたいね。」と、滋は笑ったが、「ああ、それは無理っぽいなあ。」と続けたのだった。

 「こんな時なんだけど、いいかなあ。」

 言葉を継いだのは、咲恵だった。「いろいろ片づいたら、紹介したい人がいるんだよ。」

 それを峰子はうれしそうに見やっていた。タバコに火を着けた咲恵は、「できれば30代の内に結婚したいんだよね」と言った。

 「何だ、お母さんも知っていたんだ。」

 続いて滋が、おどけて言った。平穏を取り戻しつつある家族たちの表情を見て、昌行は安堵していた。

 「次は昇の退院だな。」

 一進一退を繰り返している昇を見ていて、統合失調症が治る種類の病気ではなく、一般的には寛解と呼ばれる状態を目指すものであることを峰子に説明してみているが、それを峰子が受け容れられると昌行は考えてはいなかった。じっくり取り組むしかない、長期戦だ。昌行は、そう考えていた。この時昌行は自覚できていなかったのだが、谷中家にあっては、昌行は常に長男という役割を負っているし、峰子も弟妹たちも、それを受け容れているのだった。

          *       *       *

(14)

 心臓疾患の手術のために入院した谷中義和を、妻の峰子は頻繁に見舞っていた。2007年8月4日には、峰子や入院中の昇以外の子らの計4人が呼び出されたが、その時は幸い大事には至らずに済んだ。手術の日取りがなかなか決まらないようだったが、峰子が義和を訪ねている間、2人は静謐な時間を共有していたに違いない。

 8月15日の午後、病院にあった峰子から、急な連絡があった。昇や義和の弟妹たちも連れて来るように言われているとの用件だった。4日のこともあったので、今回は昇に病院から外泊の許可が下りていた。4人の子らと、義和の弟・秀明、妹の美津子と芳恵らの全員が揃ったのはその日の深夜だった。その日から、当番を決めて義和の入院先で誰かが寝泊まりすることを皆で決めた。

 「奥様とお子様にご説明いたしますので、部屋を移ってくださいますか。」

 担当医からの申し出があったのは、8月17日の21時頃だったはずだ。義和はいま、集中治療室に入っている。開胸したが、心臓が半分以上壊死していた。手術は無事に済んではいるが、あとはご本人次第だと執刀医が語った。予定を繰り上げた、緊急の手術だったらしい。

 この席上でも滋が沈黙を破った。「あの、『ブラックジャック』みたいに直接心臓を握ってマッサージするってどうなんですかね。」

 担当医の顔が若干曇ったように昌行には思われた。しかし、滋は真剣に聞いていることを昌行は理解していた。峰子からも言葉がない。このままでは散会になってしまうが、まだ肝心なことが話されていなかった。昌行は意を決して、その場を引き取るように担当医に尋ねた。

 「要するに、どうなれば父は生還して、どうなると死亡ってことになるんでしょうか。」

 さすがにこれは峰子から聞かせるわけにはいかない。これは自分の役割だ。昌行には、そう確信されていた。

 「夜が明けるとご家族の皆さんが集中治療室に入れるようになります。朝7時です。その時に目を覚まされていたら・・・。」

 そうなのか。やはり自分が口火を切ったことが正解だったと、昌行は確信を深めた。

 あと9時間は長いなと、その時皆が思っただろうが、そう口にするものはいなかった。交代で寝泊まりするようになって既に3日めなので、皆が疲労し始めていた。口数の少なくなった滋の前で、努めて明るく振る舞おうとしていた秀明や美津子にも、困惑の表情が浮かんでいた。

 「コンビニでおにぎり買ってくるわ。お腹空いてるでしょう。」

 美津子が言ってくれた。深夜3時だった。

 「みんな、食べないとだめよ。」と、美津子は続けた。

 外の様子がわからなかったので、今が何時頃なのかは時計の表示だけが頼りだった。そして8月18日の午前7時が谷中家の人びとに訪れ、集中治療室に招き入れられた。

          *       *       *

(15)

 「ぼくたち家族は、朝7時に開いた集中治療室への入室が許され、父・義和と対面することになりました。ぼくの心持ちは、自分でも驚くほど静かでした。少なくとも、生きていてほしいと強く念じているようなことはなかったと思います。今にして振り返ると、そこで行われたのは、父がもはや生きているという状態ではないことを確認する手続きだったのでしょう。儀式ではありませんでした。担当者の口からは、ドラマのよう『ご臨終です』といった言葉はなかったのではないでしょうか。しかし、ぼくたちの間には、父が帰らぬ人であるとの認識が共有されていきました。

 始めに泣き出したのは滋で、続いて咲恵が泣き崩れました。おかしなもので、先に泣かれてしまうと、ぼくはますます冷静というか、平静になっていきました。峰子が泣いていたかは覚えがありません。

 しばらくして、ぼくは滋の後ろに立ちました。そして、滋越しに父のまぶたを広げて、『こいつがあんたを必死に支えてきたんだ。勘違いするなよ、ぼくじゃなかったんだからな』とひと芝居打ったのです。」

          *       *       *

 日が高くなっていった。事務的な手続きが進み、遺体は葬祭場へと移されていった。生前つき合いがあった主だった人たちへの連絡が行き渡り始めたのか、あいさつに訪ねてくる者もあった。火葬場が混雑していたため、約一週間先に決まったその日までは、冷凍の上で安置されることとなった。この約一週間は、特に桐華教会関係の訪問者たちから、丁重なお悔やみが述べられていった。

 ところが、問題は葬儀の費用だった。この前年には、光江の葬儀を一般的な形式で出せたのだが、今回は違っていた。生活保護の範囲では、その通夜を出せる費用は支給されなかったからだ。この頃既に桐華教会では、過度な規模での葬儀を出すことはしなくなっていたのだが、それでも血縁関係者に声をかけない訳にはいかない。昌行たちは検討を重ねて、告別式に相当する「送る会」を、桐華教会の地域施設で行うことを決めた。幸いなことに、教会の施設長は顔見知りであったため、この申し出はむしろ快諾された。一度は入院先に戻ることになった昇にも、送る会の前後には、外泊許可が下りることになった。

 火葬までの約一週間をどう過ごしていたのか、谷中家の人びとにはあまり記憶がない。慌ただしかったのか、静謐だったのか。暑かったのか、そうでもなかったのか。

 一つ確実に言えるのは、義和が入院した後の約3か月というものは、峰子との間に初めて訪れた、夫婦水入らずともいうべき時間であったということだ。仕事と育児に追われての日々であったことを、昌行はある痛切さを持って思い返していた。その3か月があったことは、もしかすると2人にとっては幸福なことだったかもしれないと彼は思っていた。

 葬儀の当日を迎え、峰子の兄妹たちも何人かが上京してくれていた。ただし、荼毘に付している間、休憩できる控室を用意することは、支給額の範囲ではできなかった。峰子は悔しい思いをしているだろうことを想像することしか、昌行にはできなかった。

          *       *       *

(16)

 斎場には主として親戚筋の者たちが集まってくれていたが、それ以外では、控え室が用意できない事情を話して帰ってもらうこともあった。

 遺骨を収めた後で、関係者たちはタクシーに分乗して桐華教会の地域施設へと向かった。「送る会」の会場には、斎場への来場を遠慮してもらった教会や商店街の知己が、既に集っていた。

 「あとはよろしく頼みます。」

 峰子は昌行に耳打ちした。

 遺骨や遺影を会場の前方に配すると、「送る会」が始まった。始めに故人を送るため、法華経の一部が読誦された。教会は仏教系の団体だが、僧侶の姿はなかった。友人同士で一切が執り行われるようになったのだ。何人かが挨拶を述べた後、最後に遺族を代表して、昌行が語った。

 「本日はお暑いところ、父・義和のためにこうしてたくさんの皆さまにお集まりいただき、本当にありがとうございました。母・峰子に代わりまして、私・昌行が一言御礼のごあいさつを述べさせていただきます。

 ご承知おきのとおり、私どもはタニナカベーカリーの店を畳んで、昨年より福祉によって生活をするようになりました。また、義和には4人もの子がありながら、遂に孫を抱かせることは叶いませんでした。しかしです。そのことは、義和が幸せではなかった、負けであったということを意味するものでしょうか。私はそうは思いません。

 入院して3か月の間、義和と峰子は何に追われることもなく、夫婦水入らずの時間を、ほとんど初めて過ごしていました。また、手術のあとも、全く苦しむことなく、極めて穏やかに逝きました。そのことは、義和は勝ったのだということの証しなのだと、私は確信しております。

 この父の姿が示してくれたものは、人間は人生を諦めて、負けを認め、受け入れることがない限り、人としての尊厳を失うことはないという、厳然とした事実だと思います。父は満足して霊山へと旅経ちました。日蓮大聖人からも、お褒めをいただいているものと思います。

 皆さま方に置かれましては、どうか、晴れやかに父を送っていただき、今後も変わらぬご指導を私ども谷中家にいただけますよう、心からお願い申し上げ、あいさつとさせていただきます。」

          *       *       *

 人びとが掃けたあと、滋が昌行に語りかけた。

 「愛知の連中が、いいあいさつだったとすごくほめてたよ。いつ原稿書いたんだよ。」

 「いや、書いてなんてないよ。その場で思いついたことだよ。」

 「マジか。かなわんなあ。」

 「何泣いてんだよ。」

 「泣いてねぇよ。」

 滋は微笑んだが、その目には光るものがあった。もちろん、昌行も涙声だった。

          *       *       *

あとがき

 自分の父と母たちを「物語」として書き留めていきたい。それは、自分の権利のようなものであるばかりか、その「使命」さえも自分は有していると、いつの頃からか考えるようになっていました。今回それを、極めて拙い形ではありますが、実行できたことを喜ばしく思っています。

 1回を約1000文字前後で書き進めていくという方法を得たのは偶然のことで、それはちょうど新聞連載の分量なんだそうです。このスタイルを掴んだことで、記述に弾みがつきました。全体としても、短編小説程度の分量になりました。

 谷中昌行は、病を得たことと、家族とともに生活保護を受けるようになったことから「何か」を得て、最終16話で語ったように、ある種の成長を果たしています。未だ筆力及ばず、それが唐突な印象しか残らなかったとすれば、それを第二部(「熾火Ⅱ」となるはずです)以降で回収できるようでありたいと考えています。いずれまた、お届けする日々を再開することになると思いますので、その節はどうぞよろしくお願い申し上げます。ご講読ありがとうございました。

 

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