創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

アーカイブ:「熾火Ⅱ」

 

プロローグ

 それは一時的なものなのかもしれないが、谷中昌行のうつの症状は、父・義和の死去のあと、半年ほど経って若干軽快化しているように思われた。もちろん、2005年から続いた、祖母・光江の死去、家業からの撤退、そして義和の死去といった大きな出来事のの連続は、むしろ昌行を躁に近い状態にさせていたのかもしれない。

 そんな中、2008年2月のある日、昌行は不意に読書を再開するようになった。彼が通っていた桐華中学・高等学校は中高一貫の男子校で、国語科以外の理科や社会科の教員たちからも、熱心な読書についての指導があった。それがきっかけとなったのか、昌行は少なくとも20代の10年間、熱心に読書をしていたのだった。

 しかし、30代半ば以降は山手線を使った通勤と、何よりもうつ病を発症したことが重なり、昌行は2000年前後より読書から遠ざかっていた。むしろそれは、不可能になっていたのかもしれなかった。

 それでも、この時手にしていたファンタジー文学の傑作『ゲド戦記』シリーズ全6巻が読了できたことがきっかけとなって、読書を再開できたのだ。このことの意味を、昌行はまだ理解できてはいなかった。

 昌行は桐華大学時代、文学部社会学科に在籍していた。社会学という学問を、昌行は「悪食」と評していた。「社会学的な方法で」と断りをつければ、何でも対象とできるように昌行には思われていたのだ。最も昌行が関心を抱いていた社会学者は、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したドイツのマックス・ウェーバーだった。ウェーバーの広範な関心領域の中でも、近代化論・社会変動論としても整理できる宗教社会学に強い関心を抱いていた。

 桐華大学の創立者である宗教法人桐華教会の川合賢治第3代会長は、開学以来折に触れて大学で記念講演を行っている。川合の文明論とは、文明の基底には宗教があり、力強い宗教、例えばキリスト教や仏教は、文明をリードし、方向づけ得るというものであった。ウェーバーの宗教社会学理論は、この川合の文明論と響き合うようにも昌行には思われていた。また、教会の教学で展開されている生命論は、臨床心理学などとも呼応していた。

 しかし、川合会長は、教学、つまり信仰の理論的裏付けとして学問の成果を乱用することを、厳しく戒めていた。学問が信仰の従属物であってはならないという信念もまた、昌行が学んだことの一つであった。昌行が、この大学で教鞭をとりたいと考えるようになったのは、無理からぬことだった。結果的にはこの希望は叶わなかったものの、昌行には学問ないし、学問的なもの・知的なものに対する敬意が自然と備わっていたのだった。

01

 谷中昌行と千々和雅実は、同じ桐華大学の文学部に通っていた。昌行は1982年、雅実は1985年の入学で、それぞれ社会学科と英文学科で学んでいる。昌行が4年生の時に雅実が1年生として入学してきているのだから、2人は教室で出会ったのではなかった。学科も異なるのだから、なおのことである。

 実は昌行は、大学院の入試を受けるために卒業を1年先に延ばしていた。つまり、大学5年の時に1回め、浪人してさらに2回と、都合3回を受験していた。浪人中は、タニナカベーカリーの増改築のため、大学の近辺にアパートを借りていたのだ。その生活費はアルバイトで捻出することが家族との約束だった。このアルバイト先に、大学3年の雅実が在籍していたのだ。

 昌行が抱いた雅実の第一印象は、鮮明なものとは言えなかった。このアルバイトとは、自習教材を購入した家庭の中学生をフォローアップするために行われていた、社外の講習会場での個別学習の指導だった。何人もいた女子学生の中で、雅実は決して目立つ存在ではなかったのだ。

 昌行は、国語と社会及び教務主任職を、雅実は英語と数学を担送していた。雅実は教科の実務の上では、その才覚を発揮していた。教職過程を履修していたこともあったのだが、むしろ天性のものを感じさせ、特に女子中学生たちからは慕われていたのだ。

 雅実に好意らしきものを感じていると昌行が自覚したのは、1年めの冬の講習でのことだった。一週間の予定で実施される講習の初日、雅実は講習会場への道に迷って遅刻した。その姿を、会場の窓から昌行が見つけたのだ。開始からは既に1時間は経っている。通り過ぎようとしていた雅実を、昌行はあわてて追いかけた。

 「千々和さん、どうしたの。」

 半ば問い詰めるように昌行が声をかけると、一時間は歩き詰めだった雅実が涙目で振り向いた。

 「何よ、ちゃんと地図くれないで!」

 その時昌行の胸の内で、何かがコトリと音を立てて落ちた。そう、それは確かに「落ちた」のだった。

 その日以来、雅実に対する昌行の扱いが、少しぞんざいになった。とはいえ、人前で千々和ちゃんとか、雅実ちゃんと呼ぶには、遂に至らなかった。何より昌行は、雅実の清廉さを尊敬していたし、この関係を変えてしまうことが怖かったのだ。

02

 同じ桐華大学の先輩後輩として、谷中昌行と千々和雅実はアルバイト先の栄進センターで中学生たちの指導に当たった。東京都下にあった栄進センターに昌行を誘ったのは、昌行と同じ桐華大学文学部社会学科の前原浩二だった。昌行と前原は栄進センターの教務の中核であり、中学生たちへの教育についてだけでなく、創立15年程度の桐華大学の将来についても語り明かす間柄だった。しかし、ほどなく前原は栄進センターへは姿を見せなくなる。勢い、センターの実務は昌行が担うこととなった。昌行は、次第に雅実を教務の中核の一人と頼むようになっていく。

 しかしそのセンターの経営は放漫としか言い様がなく、アルバイト代の支払いも滞ることがあって、バイト学生たちの心は離れていった。昌行は、せめて2年生として籍があった生徒たちが卒業するまでの事業継続をと経営側にかけあったが、バイト学生の何人かが立ち去ろうとするのを引き止めるには至らなかった。

 「谷中さん、そろそろ大学院の試験に集中しないといけないんじゃないですか。」

 「うぅん、そうなんだけどね。何人か抜けちゃったから、なんとかしないといけないしね。」

 その頃の栄進センターは苦肉の策として、現金収入につながりやすい家庭教師の派遣にも手を広げていた。会員である中学生の家庭に、どのバイト学生をマッチングさせるかを決めるため、事前に昌行は家庭訪問を行い、初回の家庭教師の派遣には同行もしていたのだった。

 こうして昌行は、相当回数の家庭訪問を行ったのであるが、そこで気がついたのは、広い市内にあって、親の収入や中学生たちの学習態度には地域格差があるということだった。市の大部分が新興住宅地であるがゆえに、地域による経済格差が如実に表れている。つまり、住宅の質の違いとしてである。それはほとんど、子供たちの学習態度としても表れていた。要するに、親の収入と子どもの成績との間に、強い相関関係があるのだ。それを、昌行は肌感覚で掴んでいた。

 昌行は、目の前にいる一人の生徒にしか働きかけることはできなかったが、それでも何とかしたい、何とかしなければという思いが強かった。それは、大学院に進学しようとしていた動機とも、ほぼ連動している。

 昌行は桐華大学に12期生として入学している。創立12年というのは、大学としては若い。否、幼い。創立者である桐華教会会長の川合は、文明の動因としての宗教という文明観だけでなく、その担い手としての大学ということをしばしば語り、学生たちに期待を寄せていた。昌行は、自らがその担い手の一人として立っていくことを切願していたのだ。昌行は若かったが、若いのは昌行だけではなかった。川合会長もまた、若かったのだ。

03

  桐華大学創立者・川合会長の文明論は1000年を射程とするものであり、大学論は、遠くヨーロッパ中世にその起源を遡るものであった。昌行ら桐華大学生たちの多くは、桐華大学を「新しい大学」として創造していくという気概と野心を抱いていた。しかし、具体的は何をどう積み上げていけば、川合のビジョンに近づけるのかを提示できる者は皆無であったといってよい。要するに、理想と現実とに引き裂かれていたと言ってよいだろう。雅実もまた、教員採用試験という「現実」に対峙していた。

 1988年、4年生になっていた雅実は、7月に採用試験、9月に゙教育実習をこなして大学に戻ってきた。試験では不採用となり、地元での就職を決めてきての帰京だった。一方の昌行は、1988年2月の大学院の試験に失敗しただけでなく、栄進センターの業務との間で苦悩していた。もうこれ以上、進路について迷っていられる余裕はないはずだ、結論を出さなくては、と。

 その「結論」は、不意にやってきた。FM放送で流れていた女性シンガーソングライターの曲が流れたその時、そうだ、あと一回、次を「最後」として試験を受けよう。アルバイトは必要最低限に止めよう。そう決めた昌行は、栄進センターの教務主任職を辞して、スポットで参加する契約に切り替えた。そして、合格して雅実に思いを伝えるのだ、と。

 1989年3月。雅実の卒業の日が近づいていた。昌行は、指導教官を変更し、試験に臨んだのだが、全くの準備不足がたたって不合格となった。

 「谷中君、何で事前に私の指導を素直に受けなかったのかな。あと1問でも答えてくれていたら、合格にすることができたのに。」

 昌行が指導教官として希望していた、教育学部長の沢井陽一が語った。つまりは、文学部から教育学部の講座に移ることを決めての受験だったのだ。

 「実はね、その年には教育社会学会の総会が桐華であってね。男子学生が入ってきてくれたら、バリバリこきつかってやろうと思ってたんだよ。」

 沢井は笑った。昌行は、その気持ちに応え切れなかったことが悔しく、残念に思われた。

 試験が終わったあと、昌行はアパートを引き払ってタニナカビルで家族と同居することになった。しばらくの間は求人誌を見る気にもなれず、社会人としての遅いスタートを切ったのは、1990年6月のことだった。昌行は26歳になっていたが、この頃はまだ家族はみな健康で、タニナカビルの経営も順調だった。しかし、昌行が就職に活路を見出そうとしていた同じ頃、予期せぬ激震が桐華教会を襲った。後に「宗門問題」と呼ばれることになった、日蓮宗本光寺派首脳らによる、川合会長追放の画策である。

04

 宗門問題として後に総括されることとなった一連の「事件」は、1990年の年末に端を発している。桐華教会は、1930年に日蓮宗本光寺派の在家信徒団体の一つとして発足、戦後急速に発展・拡大した宗教法人である。1990年12月、本光寺は桐華教会会長の川合に対し、在家信徒の代表である総講頭を罷免する旨通達してきた。それは川合会長が、本光寺指導部を軽んじているという言いがかりのようなもので、言わば川合を追放し、本光寺による桐華教会の直接支配を目論んだ「宣戦布告」であったと言ってもよい。このことで教会は動揺し、本光寺の支配を受け入れるものと、本光寺側は考えていたのである。しかし、教会は微動だにせず、むしろ結束を強めて「応戦」した。態度を硬化させた本光寺指導部は、教会全体を破門に附した。

 この一連の流れを、昌行は当初、本光寺と桐華教会との間で起きた、教義解釈の正統性を巡る対立と把握していた。しかし、この問題は信仰におけるアイデンティティの問題に直結してることをやがて知るようになる。すなわち、本尊の「下付」や葬儀等の儀式において聖職者が列席しないといった問題として顕在化したのであった。つまり信仰において、聖職者の権威が必要なのかどうかということである。聖職者が上で、信徒が下という図式にこだわり続けた本光寺側に対して、上下の差はなく平等であるとの立場を貫いた教会側という、極めて本質的な対立であったのだ。

 本尊問題については、教会から本尊が授与されることで、形式的には解決した。葬儀についても、「友人葬」として営まれるようになることで、一応の解決を見た。つまり、川合を追放した後での本光寺による教会支配の野望は潰えただけでなく、本光寺派は、以後衰亡していく結果となった。これらのことは、昌行の信仰心を「懐疑の溶鉱炉」で精錬することとなったのだ。

 本来桐華教会は、会長の川合と先代会長の西田克則とが、手造りで築き上げた組織である。今次の宗門問題とは、教会員と川合との「絆」をむしろ強める結果となった。そして昌行においては、表面上の活動内容を精査し、信仰をより内面化させることになった。活動内容の精査とは、後述を待つことになるが、支持政党であった朋友党への支援活動についての疑念として現れることになる。

 谷中昌行は、信仰においてはこのような軌跡を辿っていった。また、大学院への進学を断念した後、数か月のブランクを経て就職したサン・メディカルサービスでの勤務は順調であったと言ってよい。しかし、帰省して就職した千々和雅実とは、次第に疎遠になっていった。

 サン・メディカルサービスを辞したのは、昌行が30歳になったタイミングで、その時に勤めている会社での勤続をするかを考えようとしていたのを実行したに過ぎない。会社からの慰留もあって、結果的に勤務は若干延長することになったものの、必ずしも明確なビジョンを持てないままに退職したのだった。転職した先でうつ病を発した後のことは、既に述べてきた通りである。

 一方で、千々和雅実は実は教員採用試験を再受験し、合格を勝ち得ていた。そのことを昌行が知るのは、実に2002年のことであった。

05

 桐華大学の後輩で、アルバイト先で昌行と知り合った教員志望の千々和雅実は、1989年3月に卒業し、長崎に帰っていった。帰郷する前年の1988年には、教員採用試験では不合格となったものの、地方紙にアルバイト社員として採用されていた。そこで雅実は業務に精励し、人望も篤かった。

 1989年秋のある日、雅実は上司の高松陽子に呼び出された。

 「千々和さん、私、あなたの居場所はここじゃないと思うの。あなたはもう一度教員を目指すべきよ。どうかしら、来年受けてみたら?」

 「陽子さん、でも・・・」

 「あなたの抜ける穴は大きいかもしれないけど、あなたを本当に必要としているのは子どもたちなんじゃないかしら」

 高松は雅実の業務量が減るように取り計らい、強く背中を押した。果たして1991年、雅実は高松の期待に応え、中学英語科の教員として長崎県に採用されることとなった。

 雅実が神奈川でフリースクールに勤めることになったたのは、1997年に結婚した彼女の夫が転勤することがきっかけだった。夫の斉木和正は昌行とは同年齢で、職場の放送局では将来を嘱望されていた。斉木とともに神奈川に移った際、高松とその知人の尽力で、雅実はフリースクールに職を得た。昌行との産業カウンセラーの講習での偶然の再会は、そうした経緯があってのことだ。

 雅実がカウンセリングの講習に参加したのは、フリースクールの経験上、必要性を感じ取っていたこともあったが、第一義的には、斉木が2001年にうつ病を発症したからであった。雅実は斉木を愛していた。何としても、斉木の力になりたいと思っていたのである。

 昌行と再会した雅実が、彼に強い共感と理解を示したことはこうした事情による。在学中に、同窓の先輩としてだけではなく、ほとんど兄のように慕っていた昌行の苦境を、雅実は見過ごすことができなかった。講習の終了後、2人は親しく会話を交わすようになった。

 しかし2004年に受験者たちが集まった際、雅実が姿を現さなかったのには理由があった。斉木が自死を企図したからだ。このことで、雅実と昌行の親交は再び途絶えることになった。斉木には放送局の復職プログラムが用意されていたため、関連の子会社への再就職も決まりかけていた。実はうつ病は、軽快化して行動力が付いた頃が注意を要する病である。回復途上にある行動力が、自死を図るという方向で発揮されてしまうことがあるのだ。斉木を思いやった雅実は、3か月の間休職して、夫に寄り添うことにした。

 休職が明けた後も、雅実は斉木に対して献身的に尽くしていた。しかしこれ以上拘束したくはない、迷惑はかけられないと降りたのは、斉木の方からだった。当面の療養も含めて、佐賀の実家に帰っていったのは、奇しくも昌行の父・義和が逝いた2007年のことであった。

 こうして雅実の人生には、冬が訪れた。しかし、明けない夜がないように、春の訪れない冬もない。再びの春が雅実に訪れるのは、彼女が書いた一通の電子メールがきっかけだった。

06

 夫の斉木和正が雅実の元を去った2007年から、早くも2年が経とうとしていた。雅実は敢えて、フリースクールの職に没頭するように努めている。そのことで雅実は斉木との生活を振り切ろうとしていたのだった。このスクールで勤務も、1999年以来、そろそろ10年近くになろうとしている。もはや雅実は、スクール外での市民グループ等にあっても名の通る存在であった。

 そんな2008年の年度末、雅実はかつて同僚だった中井由紀江から、プリントの束を手渡された。

 「雅実ちゃん。昔、一緒に飯田橋でカウンセリングの勉強しに行ってたじゃない。これ、ちょっと読んでみない?」

 「何よ、急に。一体どういうこと?」

 「もう更新されてないみたいなんだけどね、この『ロジャーズのいざない』ってブログ、心当たりあるんじゃないかなあ。雅実ちゃん、大学の先輩に偶然会ったって言ってたじゃん。たまたま見つけたんだけどさぁ、その先輩さんじゃないかなあって思うの」

 「そんなことって、あるのかなあ。だって、もう6年も前のことだよ」

 「いいからいいから、読んでみようよ」

 由紀江から渡されたプリントの束の主は、「ウサギの角」と名乗っていた。その主は、カウンセリングの講習に参加した経緯や、大学の後輩に出会ったこと、再会を期待していたが2004年には会えなかったことを綴っており、その時点からは更新が滞っているようだった。でも、きっと谷中さんだ。雅実には、そうとしか思えなかった。

 しばらくは年度替わりの忙しさに流されていた雅実であったが、ブログの主である「ウサギの角」氏にメールを書いてみようと思ったのは、その年の夏、つまり2009年7月のことであった。

          *       *       *

謹啓、ウサギの角さま。このメールがお手元に届くことを願いつつ書いています。また、突然にお便り差し上げます非礼をお許しください。

私はフリースクールで講師をしているMasamiと申します。このブログは、偶然知人から教わりました。読み進めていくうちに、懐かしさで心がほどけてまいりました。ウサギの角さま、思い違いでなければ、あなた様は私の大学の先輩なのではないかと、私には確信のようなものがあるのです。そうであることを、心から願っています。返信先に、私のアドレスを設定しておきました。よろしければ、ご返信を賜ることができればと思っています。お待ちしております。かしこ。

Masami

          *       *       *

 幸いにもこのブログは、フリーのメールアドレスで開設されていた。昌行が利用しているプロバイダは何度か変更されていたものの、彼はこのメールアドレスを常用していた。ブログは更新こそ停止されていたが、「おひさしぶりです」とのタイトルがついたこのメールが昌行の目に止まった。

07

Re:おひさしぶりです。

Masamiさま、いえ、私はあなたを千々和雅実さんと確信しているのですが、いかがでしょうか? 違っていたら申し訳ない限りです。ご連絡ありがとうございました。更新をしていないブログに連絡があり、びっくりしました。でもうれしかったです。

あなたがもし、私の知る千々和雅実さんであるのなら、またご返信いただきたく存じます。ご検討ください。

ウサギの角こと、谷中昌行

          *       *       *

 その週のうちに届いた返信に、雅実は小躍りして喜んだ。

 「由紀江ちゃん、ありがとう! やっぱり先輩の谷中さんだったよ!」

 由紀江は安堵した。斉木との離婚の後、憑かれたように仕事に打ち込んでいた雅実には、休息も必要なのだと由紀江は考えていたからだ。

 ほどなくして雅実は、再度昌行あてにメールを送信した。

          *       *       *

Sub:千々和です。ご連絡ありがとうございました。

谷中昌行さま、ご返信ありがとうございました。「ウサギの角」さまが、谷中さんであって、本当にうれしいです。これからまたどうぞよろしくお願い申し上げます。

今日は少し長いメールになるかもしれません。お許しください。実は、飯田橋でお会いしていた時、私は結婚していて斉木姓でした。お伝えするタイミングを逸していて、申し訳ありませんでした。でも、今はまた千々和姓に戻ってしまいました。斉木は、病気にかかっていて、その後それが原因で離婚し、彼は今、実家で療養しています。谷中さんにお会いした時、谷中さんのご病気を他人事とは思えなかったのは、そうした事情があったからです。斉木もうつ病だったのです。講習会の同窓仲間の会でお会いできなかったのは、その問題の渦中にあったからでした。その後、ご病状はいかがでしょうか?

私はというと、お会いした時と同様に、今も神奈川でフリースクールに勤めています。結婚した後、斉木の転勤のために私も神奈川にまいりました。教職への思いは断ち難く、知人たちの勧めもあって、このスクールとの縁があったのです。神奈川に来たのは1999年ですから、早いもので、もう10年になってしまいますし、私も42歳のバツイチになったということです。

仕事は充実していますけど、ちょっと疲れることもあります。今年はちょっと涼しいのか、それはそれで助かりますが、体調にはどうかお気をつけくださいね。

こうしてお便り差し上げられることが、本当にうれしいです。また書かせていただきます。それではまた。

Masamiこと、千々和雅実

P.S. なんでまた、「ウサギの角」なんですか(笑)

          *       *       *

 雅実からのメールが、昌行には喜ばしかったことは言うまでもない。この後2人は、しばしばメールを交わし合うようになった。

08

Sub:やっぱり、「とにかく」なのかぁ!

雅実です。ご返信ありがとうございました。「ウサギの角」さんは、「兎に角」さんなんですね。そのまんまじゃないですか(笑) でも、そう言ってご自分を励ましていらしたのでしょうね。おばあさまとお父さまの件、心からお悔やみ申し上げます。何年も大変なことが続いてきたのに、谷中さん、ご立派だと思います。本当にそう思います。私なんて、いつも愚痴言いながらですからね。斉木が帰省してしまった時、もう神奈川にいる理由もないし、長崎に引っ込んでしまおうと思ったくらいでしたから。

私が落ち込みそうになった時、どうぞ激励してくださいね。

谷中さまへ。

          *       *       *

Sub:励まされているのは、きっとぼくです。

千々和さん、励まされてきたのはぼくでした。覚えていらっしゃるでしょうか、飯田橋で再開した時、あなたは「私は何をすればいいの」と言ってくださった。確かに、その時には斉木さんもご病気で、他人事とは思えなかったんでしょう。でもね、ぼくはうれしくて泣きそうだったんですよ。こんな病気になったのは、何が悪かったんだろう、何をしたからなんだろうと、自分を責めてばかりいました。がんばってねと言ってくれる人はいましたけど、「してほしいことはあるか」と聞いてくれたのは、千々和さんが初めてだったんです。それがどれほどうれしかったことか。あなたは大変なことをしてくれたものですよ・・・。

          *       *       *

Sub:提案があります

谷中さま。PCはお使いでいらっしゃいますか? パソコンを使ったビデオ通話ソフトがあるんです。インターネットを使っていらしたら、電話代はかかりません。お話しできるとうれしいです。いかがでしょうか。取り急ぎ、ご用件のみ。ではまた書きますね。

          *       *       *

Sub:いいですね、やってみましょうか。

千々和さん、こんにちは。そうか、その手があるんですねー! やってみましょうか。ぼくはのPCには、スカイコールが入ってますから、これが使えそうですね。

これでいいのか、また教えてください。ご返事お待ちしています。

          *       *       *

 2009年の年末の頃まで、昌行と雅実は折りを見てメールのやりとりを何回か重ねていく。その頃の谷中家では、次男の昇が相変わらずの一進一退を繰り返していたものの、長女の咲恵が結婚していったという朗報もあった。

 また、昌行にあっては、前年に『ゲド戦記』シリーズ全6巻を読了できたことから、不意に読書を再開できるようになっていた。そのことを昌行の家族は知る由もなかったが、昌行の内側で、何かの歯車が噛み合うきっかけとなっていたことは間違いではないだろう。数年のうちに昌行は、読書会として、他者との関わりを積極的に模索するようになるからだ。

09

 雅実と昌行とは、互いに数回ずつのメールを送り合い、アルバイト時代の昔話に花を咲かせたり、近況を語り合ったりしていた。雅実はフリースクールの業務上、ビデオ通話を日常的に利用していたので、昌行とのやり取りに使ってみたいと申し出た。パソコン系のコールセンター業務を勤めていた昌行は、幸いにもこのような方面についても明るかったので、興味本位で快諾してみせたものの、実際に通話を試みることになったのは年末のことだった。

 設定を済ませた旨を雅実に伝えた昌行は、ビデオ通話ソフトのスカイコールにサインアップして、雅実のコールネームを入力し、コンタクトが承認されるのを待っていた。

          *       *       *

Masami>こんばんは! コンタクトありがとうございます!
Usagi>こんばんはー
Masami>Usagiさんなんですね(笑)
Usagi>うん。今日はよろしくお願いしますね。
Masami>はーい。今日はビデオ試してみますか?
Usagi>そうですね、お願いしていいですか?
Masami>設定は済んでいますか?
Usagi>テストしたら、ちゃんとカメラも認識してました。
Masami>じゃあ、できそうですね!
Masami>赤いボタンを押せば、私の顔と声がそっちに届きます。でわでわ!

          *       *       *

 コールボタンをクリックした雅実は、昌行が反応するのを待った。やがてディスプレイに互いが表示され、スピーカーからは声がするようになった。表情と声を確認したのは、もう6年以上が過ぎてしまっていた。

 「ふふ、今日はおめかししてるんですよ」

 「そんなことしなくてもいいのに」

 「えー、そこはお礼を言ってほしいのに!」

 この再会までの間、昌行は祖母と父に逝かれ、タニナカビルからは撤退して家族は生活保護を受けるようになっていた。弟・昇の統合失調症ともども、昌行のうつ病は一進一退を繰り返している。一方で雅実も、夫の斉木が自死を試みた後に離縁するということがあった。しかしこうしてインターネットを介して再会してみると、互いが風雪によく耐え忍んだことが確認されることとなった。言わばある種の連帯感が、既に生まれていたのだった。

 「千々和さん、お元気そうで何より。うれしいです」

 「谷中さんも、思ってたよりずっと元気そう。よかった」

 「こんな機会を作ってくれてありがとね。文明の利器だよね」

 「私、仕事でもよく使ってますから。今日はお話ししたいことがたくさんあって」

 「何だろう、緊張しちゃうな。お手柔らかにね」

 「もう!」

 2人には、6年の隔たりが感じられなかっただけではない。栄進センターでのアルバイト時代の親密さが蘇っていた。やがて雅実は、この日の「本題」を切り出していった。

10

 あなたの力を貸してほしい、あなたを必要としている人がいるから――。

 雅実は昌行に訴えかけた。雅実はフリースクールの教員として、不登校児や学習困難者とその家族たちに接してきていた。その彼女が、スクール外の市民グループとも連携するようになったことは、想像に難くない。また、元の夫であった斉木がうつ病を患っていたことで、やがて精神疾患の当事者グループ、ないし自助グループを志向するようにもなっていた。そこへ現れたのが昌行だったということだ。

 「つまりは、その当事者会のメンバーとして、ぼくを迎えたいってことなんだね」

 「はい。まだいつスタートさせるかとか、具体的なことは何も決まってはいません。でもね、メンタルの病気で部屋にこもってしまうと、よくないことも多いと思うんです。あのね、ピア・サポートとか、ピア・カウンセリングって言うらしいんですよね。病気の当事者同士で支え合うんです」

 「ああ、なるほどねぇ」

 「考えておいてくださいね。無理強いするつもりはないんですけど、谷中さん、きっと向いていると思うんですよね。それはちょっと、自信あるの」

 「それは買いかぶり過ぎなんじゃないかな」

 そうは言っても、昌行には雅実が買ってくれていることがうれしかった。

*       *       *

 2010年が明けた。メールのやり取りが続いていたものの、昌行は返事をするきっかけを捉えそこねていた。父・義和が逝いて、2年半になろうとしている。弟・昇を連れてビデオを借りに出かけたり、散歩をするようなことも少なくなっていた。雅実が言うように、外出をするのにはいい口実かもしれなかった。乗ってみようか――。昌行はメールを書こうと思い立った。

*       *       *

Sub:返事をしたいです。

先日来お誘いをいただいている当事者会の件ですが、そろそろご返事をさしあげたいと考えています。この際ですので、お誘いをお受けしたいと考えるに至りました。また改めて、打ち合わせなどが必要ですよね。ご都合を教えてくだされば、時間を調整します。ご遠慮なくおっしゃってくださいね。

谷中

P.S.ぼくの記憶が確かなら、来月お誕生日じゃなかったですか?

*       *       *

 その日のうちに、雅実からビデオ通話ソフトのスカイコールでの連絡が入った。時間帯をすり合わせて、昌行たちはパソコンの前で互いを待った。

 「こんばんはー。あれ、どうかしましたか」

 「ずるい。いつから知ってたんですか」

 「え?」

 「誕生日知ってるなんて、今まで言わなかったじゃないですか」

 「あ・・・」

 「ずるいです」

 雅実がいささか頬を赤らめていたことは、昌行の思い違いではなかっただろう。その夜は、いつになく会話が弾んだ。果たせるかな、雅実の誕生日の2月22日に、産業カウンセラーの講習を受けていた飯田橋にあるコーヒーショップで再会を約し合い、この日の通話が終えたのだった。

11

 「朝はくもっていたけど、晴れてきたね」

 2002年に産業カウンセラー養成講座で出会った時と同じコーヒーショップで、昌行と雅実は待ち合わせた。この日、2010年2月22日は雅実の誕生日だったが、そのことを昌行が知っていたと彼女は考えていなかった。それだけに、昌行がその日を指定してきたことがうれしかった。

 「誕生日って言っても、ぼくの身の上じゃあ、気の利いたことは何もできないんだけどね」

 2006年から生活保護を受給している昌行はそう笑って、一冊の新書を雅実に手渡した。

 「先だって亡くなった河合隼雄さんの『子どもの宇宙』。亡くなったのを期に再読してみたんだ。千々和さんも読むといいと思ってね」

 「ありがとう、うれしい。読んでみますね」

 雅実の誕生日を祝したあと、2人は当事者会の開設に向けて語り合った。

 当事者とは、この場合精神疾患を病む本人を指すものとしておこう。つまり、患者本人ということである。患者同士で、病気と自分自身についての理解を深め、互いに支え合い、治療をサポートすることを目的とするのが当事者会だ。雅実はフリースクールに勤めている関係上、不登校やひきこもりの情報に接することが多かったが、その中で、精神疾患一般についての情報に接することもまた多かった。

 そんな中、2004年に夫の斉木が自死を図ったこと、さらに、離婚して今では故郷で静養に当たっていることが重なった。雅実はむしろ、広くこころの問題一般に深くコミットすることを選んできたのだ。斉木が帰郷した2年後、雅実は昌行に、この当事者会への協力を願い出た。

 雅実には、会を立ち上げるという他に、明白な目的がもう一つあった。それは、昌行を会の主要メンバーとして迎え入れることで、その社会性の回復を図ろうというものである。雅実は、そのことについても丁寧に説明を尽くした。

 「千々和さん、お心遣いありがとう。感謝します。ぜひ、ご一緒させてください」

 昌行は改めて協力を約した。

 「ピア・カウンセリングとか、ピア・サポートっていう形でなら、谷中さんがコミットできる余地があると思うんです。いいえ、谷中さんこそ適役だと思うの」

 昌行が、自分の経験を活かしたいとして、産業カウンセラーの講習を選んだことを雅実は知っていた。

 「今日はどうもありがとう。楽しかったです」

 「いえ、こちらこそ長時間・・・。お会いできたことが、何よりの誕生日プレゼントでした。そうそう、谷中さんのお誕生日はいつなんですか? お返ししたいです」

 「お返しいただくことなんて何もしてませんから。実は来月なんですよ、11日」

 「えー! 急いで何か探さないと」

 「だから、何もしなくてもいいって」

 「そんなわけにはいかないですよ」

 「じゃあ・・・」

 「何?」

 「またお会いしてください、ご都合のつく日に」

 「そんなことでいいんですか。何だか申し訳ないなあ。じゃあ、その日は打ち合わせはしないってことにしましょうね」

 雅実の心は弾んでいた。

 「実はね、4月から病院で、カウンセリングを受けることが決まってるんですよ」

 「そうなんですね。じゃあ、こうして外に出かけるようになってることも報告しておいてくださいね」

 別れる直前にこう言葉を交わした昌行には、雅実が理解してくれていることが何よりもうれしく感じられていた。

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 「あのね。谷中さんは、クラシックお聴きになりますよね」

 「ええ、もっぱらCDですけど、よく聴いてますよ」

 「コンサートにお誘いしたいんですけど、私、何を着ていけばいいんでしょう。21日の日曜日、サントリーホールでチャイコフスキーをやるんですんって」

 3月始めのビデオ通話で雅実が切り出した。この日までの会話で、昌行には本やCDを買い込んでしまう収集癖があることを、雅実は把握していた。

 「ちょっとしたショッピングとか、軽いお出かけの感覚でいいと思うんだけどね。誰の指揮なんだろう」

 「インバルさんて言ったと思う。ヴァイオリンは神尾さんですって」

 「行く」

 昌行の即答ぶりに、雅実はおかしさを堪えきれなかった。

 「私、サントリーホールって初めてなんです。どこで待ち合わせればいいの」

 「正面向かって右側に、チケットの窓口があるからその付近でどうかな。いやぁ、楽しみだな。会った時に代金払うから、それまで立て替えててもらっていいかな」

 「やだ、お誕生日のお祝いなんだから、そんなこと気にしちゃだめですよ」

*       *       *

 コンサートは熱演だったが、その後、昌行はうつの症状を軽くぶり返してしまった。

 「雅実ちゃん、昌行さんのこと、あまり急に引っ張り回しちゃだめよ」

 当事者会の打ち合わせに合流することになった、元同僚・中井由紀江から雅実はたしなめられていた。

 「斉木さんにできなかったこと、昌行さんにしてあげようとしてないかしら。昌行さんは、斉木さんの替わりじゃないんだからね」

 「そんなことないわ。大丈夫、心配しないで」

 「ほらほら。あなたの『心配しないで』は、図星ってことなんだから」

 「やめてよ」

 いかにも心外だという面持ちで雅実は帰宅していったが、心中では穏やかではいられなかった。

*       *       *

 4月も終わりに近づき、やがて連休に入ろうとしていた頃、由紀江は昌行を見舞うメールを書いていた。

Sub:体調はいかがでしょうか?

谷中さま、体調崩されているご様子ですが、お加減はいかがでしょうか。雅実ちゃんがはりきり過ぎて、あちこち引き回してはいないかなと心配していたところです。それを全部受け止める必要はないと思ってます。どうか焦らず、ご無理のない範囲で私たちにおつき合いください。当事者会のことはご心配なさらず、ゆっくり復調なさってくださいね。でも、どうか雅実ちゃんのこと、よろしくお願い申し上げます。余計なおせっかい、失礼いたしました。

中井由紀江 拝

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 2010年の梅雨の頃、雅実たちによる当事者会の設立が10月と決まった。この会は、対面で開催するだけではない。ビデオ通話を利用したオンラインでの開催をするというのは、昌行からの発案である。8月、雅実と昌行、由紀江の3人は、これまでを振り返って労いあった。

 「谷中さんが調子崩したとき、一時はどうなるかと思っちゃったけど、何とかここまで来れましたね。よかったぁ、2人ともありがとう。これからもよろしくね」

 「雅実ちゃん、本業との両立がんばったよね。すごいよ」

 「いやぁ、由紀江ちゃんが参加してくれて、心強いな。社労士の試験勉強、たいへんでしょう」

 「あと1年だけどね、がんばるね。でも昌行さんが戻ってくれてよかったぁ」

 「いやいや、オンラインでもやりたいって言ってる以上、責任は取らないとね」

 初年度こそボランティア扱いではあったが、翌2011年度には地域生活支援センターの登録団体となることを目指している。全体としては、目下のところ順調であると言ってよいだろう。

 「ホームページも何とかなりそうだしね。ただ、最近だとSNSでも告知した方がいい感じなんですよ。どうだろう」

 「どうなんだろうね。私も見てみましたけど、アカウントをフォローしてくれてる人たちの書き込み、何だか深刻なものが多いみたいね」

 「中井さん、そうなんですよね。ぼくたちの力で何とかなるってもんじゃなさそうなんだよね」

 昌行は、「しずく」と名乗るこの当事者会のアカウントのフォロワーが、自傷行為やオーバードーズについて、ためらうことなく書き込んでいるのを懸念していた。そうやって、いわば互いの負の引力圏に引き込み合うことが、参加者にとっての悪影響になるのではと考えていたのである。慎重な対応が求められることになろう。3人はしばし沈黙してしまった。

 「あのさ」と、由紀江と雅実が、ほぼ同時に沈黙を破った。

 「またこれからも、ゆっくり考え続けましょうよ。考え続けることが大事だと思うの」

 由紀江がこう続けて、2人はそれに同意した。

 「昌行さんは、体調とメンタル優先をしてくださいね。雅実ちゃん、仲良くするんだからね、うふふ」

 「中井さん、からかわないでくださいよ」と、制するように昌行が言った。

 この頃は、全てが順調だった。一つ一つ課題を洗い出しては、3人で解決を図っていけた。実際、10月に開催した初回の当事者会の本会は少人数の参加ながら盛会だった。昌行は、カウンセラーと主治医の許可を得て、団体登録をする予定の地域生活支援センターに、利用者としても週2回通うようになっていた。そう、「まだ」この頃は順調だったのである。翌年3月の、「あの日」が訪れるまでは――。

エピローグ

 2010年の年末、慌ただしく過ごしていた雅実の元に、一通の手紙が届いた。それは、雅実が教職に就くことを促したかつての上司・高松陽子の娘からのものだった。高松美恵子は、2011年2月に廣田泰治と晴れて結婚するという。姉のように雅実を慕っていた美恵子からの吉報に対して、雅実は近況をしたためた。

*       *       *

高松美恵子様。この度の朗報をうれしく拝読いたしました。ご連絡くださって、本当にありがとう。少し長くなるかもしれませんが、私の近況をお伝えしようと思います。

私はお母様の後押しで長崎で教員となり、斉木と結婚をしてからは神奈川に移り住んだことはご承知いただいている通りです。そこでは知人の尽力もあって、フリースクールで職を得ました。仕事は順調でしたが、斉木がうつ病になり、そのことがきっかけとなって、斉木は帰郷することになりました。私は、その心の穴を埋めるかのように仕事に取り組みました。つい最近までのことです。

フリースクールでは、不登校やひきこもりの生徒さんや、そのご家族に関わっていました。スクール外でのおつき合いもあって、私は精神疾患の当事者の方々についても関心を持つようになったんです。そうした時に、大学の先輩と再会しました。その方もうつ病と診察されていたのです。

今、私は親友やその先輩たちのお力を借りて、当事者グループの「しずく」を設立したところです。まだボランティア・グループとして活動していますが、これからはしっかりとした運営をしていきたいと考えています。

私も来年は44歳になりますが、とても充実しています。関東までいらっしゃることがあったら、ぜひお声をかけてくださいね。泰治さんにも、よろしくお伝えください。お式にご招待くださり、ありがとうございました。ぜひ出席させていただきたいと思っています。いろいろお忙しいかと思いますが、ご健康には留意なさって、すてきな式になさってください。私の心は、いつもあなたの側にあります。どうぞお幸せに。

千々和雅実

親愛なる美恵子さまへ。

*       *       *

 「へぇ、じゃあ、この美恵子さんて、あなたが教職に就くきっかけを作った恩人のお嬢さんなんだね。うれしいでしょう」

 「もちろん。年明けもいろいろあるかと思うけど、来年はいい年にしましょうね」

 昌行とのビデオ通話で、美恵子の結婚のことを雅実は伝えていた。

 当事者会の「しずく」は、10月の開設以来、月1回のミーティングと、不定期のビデオ通話でのミーティングを着実に開いていた。昌行も、スケジュール通りではないものの、地域生活支援センターへの通所を続けていた。しかしながら、服薬の量や種類が減ることはなく、治癒に向かっているとの自覚はなかなかできないでいた。

 昌行の年内最後の通所が済んだ28日夜のビデオ通話で、彼は雅実に語りかけた。

 「ちょっと早いかもしれないけど、今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いしますね」

 「はい、こちらこそよろしくお願いします」

 「雅実さん、」

 「ん」

 「あ、いや・・・」

 年末年始の喧騒をよそに、2人の間には満ち足りた静寂が流れていた。

あとがき

 プロローグ+全13話で、「熾火Ⅱ」を一旦完結させることができました。ご講読くださった方々のご指導の賜物と感謝しています。ありがとうございました。ほどなく、完結編としての「熾火Ⅲ」をスタートさせる予定でおりますので、変わらぬご支援をいただけますようお願い申し上げます。

 小説を書かれている方々の文章を読むと、登場人物たちが動き出すと言った主旨のことが話題になっていることがありますが、主人公の2人(谷中昌行と千々和雅実)だけではなく、2人の対人関係まで含めて、人物たちが私の頭の中で動いてくれていました。彼・彼女らにも感謝です。

 もっとも、力及ばずで、言及しておきながらふくらませることができなかったイシューもありました。これらは、できる限り「熾火Ⅲ」において展開させていきたいと考えているところです。

 「Ⅲ」では、昌行と雅実らよりも若い世代の人物たちを登場させます。そうした人たちも含めた、対立や反目と、融和とを描いていければ望外の幸せです。何卒よろしくお願い申し上げます。

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