プロローグ
2010年、千々和雅実が谷中昌行を誘って開設した当事者会「しずく」は、雅実の同僚だった中井由紀江を加えて、10月の第1回ミーティングに向けての準備を進めつつあった。オフラインでのミーティング開催に先立って、ホームページやSNSのアカウントが準備され、少しずつではあるが、反応も帰ってきていた。
そんな中でSNSでの目立った反応が、1985年生まれで、当時コンビニ店員を務めていた新田壮介からのものだった。壮介はうつ病と診断されたばかりで、何をどうしたらいいものか全く手探りの状態だったが、偶然にもSNS「コネクト」で、昌明たちのアカウントにたどり着いた。その壮介への最初期の対応は、昌行が担当していた。
「新田さん、それはお困りでしたね。でも、心配しないで、一つずつ一緒に進めましょう。まずは、通院先を確定しましょうか。もし、どの病院を選べばいいかわからないのであれば、最寄りの保健所にいらっしゃる保健師さんを頼るといいです。あと、自立支援医療という制度があるから、それを利用するよう手配してください」
「じりつしえん、ですか。それは何なんでしょう」
「要は、収入に応じて、精神科の医療費が安くなる制度のことです。これも保健師さんに相談するといい」
「ありがとうございます。調べてみます。谷中さん、ありがとうございました」
「あと、これは個人的な考えなんですが、同じ通うんなら、メンタルクリニックを探すより、精神科の看板を出している所がいいと思うな」
「そうなんですね」
「うん。でもまあ、まずは保健師さんと会ってみてくださいね。また結果を教えてください。待ってますからね。お大事にしてください。お仕事のことは、また今度お話ししましょう」
「はい、ありがとうございました」
ビデオ通話ソフトの「スカイコール」では、顔を表示させることはせずに、壮介との音声だけでやりとりを終了させた。昌行は、こうした当事者会の必要性を感じていたものの、それと同時に、この社会が軋み始めている予兆を感じざるを得なかった。20代半ばでアルバイトや派遣といった、非正規での就労が以前よりも増えてきていると感じられること、そして、SNSのタイムラインで頻出するようになったメンタル疾患の当事者たちの書き込み。自分たちが手掛けようとしていることは、むしろ必要とされなくなることこそ望ましいのに、逆にその需要は高くなっているのではないか。昌行たちは、連日議論を交わし合っていた。
そして10月、第1回のミーティングが開催された。これは実質的には設立総会であったが、ごく小規模の開催だった。そこには、埼玉県から足を運んできた新田壮介の姿もあった。
01
2011年2月、千々和雅実は新卒時の勤務先での上司・高木陽子の娘・美恵子の結婚式に出席するため、長崎にいた。簡素ながら、参加者によく祝福された式であった。ここにも、陽子の考え方、いや、人生観というものが表れていたと、雅実には感じられた。
「いやぁ、いい式だったなぁ。泣いた泣いた」
「お母さんも泣いてたでしょ」と同僚の中井由紀江が語った。
「そりゃそうよ、女手ひとつで育てた愛娘だもんね。陽子さん、すてきなお母さんだったよ、うん。さぁてと、仕事に戻らなくちゃ」
多忙な年度末に向かいつつあったが、雅実は晴れやかな面持ちだった。オンライン経由で当事者会「しずく」に参加するようになった新田壮介や、地域生活支援センターで貼り出していたチラシを見た吉岡啓(よしおか・ひらく)からの問い合わせなど、少しずつ参加の輪が広がってきていた。
30歳だという吉岡は、双極性障害を疑っているうつ病の当事者である。大学に進んですぐにうつの症状を発した吉岡は、既に10年以上短期のアルバイト等を転々としながら独り暮らしをしている男性である。「うつ病は心の風邪」という以上、うつ病は治るものと捉えていた吉岡は、病の長期化を疑問に感じていた。そんな折、主治医から診断を再度見直したいとの申し入れがあったという。吉岡が複雑な思いでいることは、言うまでもないだろう。
かつては「躁うつ病」とも呼ばれていたこの疾患は、診断が難しいものとして知られている。うつの症状が表れている当事者は、それを何とかしたい、逃れたいとして、医療機関を訪ねることはあり得ることだ。また、周囲から心配されることもあるだろう。しかし、それが躁の状態ではどうかと言うと、本人も周囲も、病気が軽快化したり、治ったものと考えることがしばしばなのである。つまり、それが病気の表れとして本人や周囲には感じ取られにくいのだ。それで通院を止めてしまうことすらある、やっかいな病気でなのである。吉岡はしかし、出版物などで、このように診断を誤りかねない状況がありうることをよく把握していた。由紀江は昌行の様子を見ていて、吉岡と似ていると感じていたのだが、それを昌行に伝えることはまだなかった。
* * *
3月となり、昌行の誕生日が近づいてきていた。雅実から再三促されて、この日は、2人で昌行の自室で過ごすことをようやく決心していた。昌行が自分の部屋に女性を迎え入れるのは、実にこれが初めてのことである。それを伝えられて、うろたえたのはむしろ雅実の方だった。
「じゃあ、明日。センターは午前で切り上げるから、駅の北口で会おうか。12時半には会えると思うけど、早くないかな」
「休み取ってあるから、大丈夫。あの、もう一回聞くけど、本当に私、行っていいの」
「来たいって言ったのは、あなただからね」
昌行は笑おうとしてみせたが、ぎこちない笑顔にしかならなかった。
「雅実さんだから、来てほしいんだって・・・」
02
「今日はどんなプログラムだったの」
「アンガー・マネジメントの初歩について。怒りを抑えることが、マネジメントの目的じゃないらしいんだよ。むしろ、正しく怒ることが大事なんだってさ」
「どういうことなの」
雅実に、このアンガー・マネジメントの知識がないはずがない。昌行が興味を持って話していることが、雅実にはうれしいのだ。
怒りの感情につながる事実があることを正しく伝え、相手との共通の利益を見出そうとするコミュニケーションがその本質と理解したつもりだと、昌行は語った。昌行はしばしば、聴いたことに自分の意見をプラス・アルファして理解している。雅実には、そういった点もまた、昌行の美点であると思われていた。
「雅実さん、お腹空いてない。それとも、近くでお茶とケーキとかにしようか」
「それなら、どこかで買って、昌行さんの部屋で食べませんか」
「じゃあ、まだ行ったことのない近くのケーキ屋さんで買っていこう」
最寄り駅から岸野ハイツまでの間に、その「ボレロ」という小さなケーキ屋はあった。いくら甘いものが好きだとは言え、50歳が近くなった昌行が、ボレロに入るには抵抗があった。以前からこの店を利用してみたかった昌行には、格好の理由が見つかったことになる。
店内では、予想していたより高めの価格設定だったことも手伝っているのだろうか、何を選ぶか決めかねている様子の昌行をよそに、雅実がてきぱきと4つのケーキを決めた。
「どれもおいしそう。ごめんね、勝手に決めちゃった」
昌行も雅実も、アルコールを苦手としているので、飲み物はペットボトルの麦茶とインスタントコーヒーということにしてあった。
「あら? わりと小ぎれいにしてる。がんばったんですね!」
「ごめん、これが限界だったよ」
そう言って昌行が笑った。2011年3月11日金曜日、昌行は生まれて初めて、女性と2人だけの誕生日を過ごすことになったのだ。
「去年サントリーホールで聴いた曲のCDあるんですよね。また聴いてみたいんですけど」
「ヴァイオリン協奏曲でいいのかな。」
右も左もわからないというのに、ただ昌行のためにと入手したチケットで聴いたチャイコフスキーは、雅実の心を捉えたのだ。それを知って以来、昌行は曲目と演奏者を雅実向けに選んでCDの貸し借りをしていた。
「ケーキ、先にいただこうか」
ケーキとグラスをテーブルに並べ、麦茶をグラスに注ぐ。
「今度も日本人女性のヴァイオリン奏者だよ。五嶋みどりさん」
「昌行さん、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。さ、食べて」
「うん」
時計が午後2時40分を指そうとしていた――。
03
グラスが倒れて飲み物がこぼれた。書架の上から空の段ボールが落ち、ガスも止まってしまった。東京でこんな揺れがあったという記憶は、昌行にはない。2011年3月11日14時46分、宮城県牡鹿半島沖を震源とする、のちに東日本大震災と称される地震が発生した。この震災は、死者・行方不明者が2万2千人を超えるという大惨事となった。
テレビでは、波に追い立てられる自動車の映像が、繰り返し流れている。雅実はテレビに映し出されたその同じ自動車に向かって、「逃げて、逃げて」と祈っていた。一方で昌行は、次第に冷静になっていく自分が不思議でならなかったが、なぜか雅実を無事に帰宅させることが先決だと考えていた。
やがて首都圏の交通網も麻痺していることがわかってきたので、予約していたホテルに向かうことは取り止め、今夜は雅実を宿泊させることに決めた。
その翌日には、当事者会「しずく」のミーティングを開く予定でいた。中井由紀江から、雅実の携帯電話に着信があった。
「よかった、つながって。雅実ちゃん、無事よね」
「うん、由紀江ちゃんも大丈夫?」
「うん。後で昌行さんにも連絡するけど、明日どうしよう。私は延期にするのがいいと思うの」
「そうだね、明日は止めにしようよ。詳しいことはまた3人で会って決めよう」
「昌行さんにはどうする? 雅実ちゃんが連絡したいよね」
「ありがとう、そうするね」
「よろしく言っておいてね。何かあったら、連絡ちょうだいね」
しかしこの時にはまだ、災害の規模を知る由もなかった。ましてや、福島第一原子力発電所で、未聞の事故が起ころうとは、誰が想像できただろう。雅実も昌行も、ただ目の前にいる人が無事であることに、胸をなで下ろしていたのだった。
そしてその夜、2人は初めて肌を重ね、互いが生きていることを確かめ合った。
「雅実さん、びっくりしないでほしいんだけど、雅実さんはぼくの初めての女性なんだ」
「本当に私でよかったの?」
一度は危機に瀕していた《いのち》が、赤々と激しく燃え盛っていることを雅実は感じていたが、昌行は果たし得なかったことを恥じていた。そんな昌行を雅実は抱き止めていた。
「いいんだよ、私はとっても満足だったよ。うれしかった。そうしてもらうだけが目的じゃないもん。女って、繊細なんだよ」
2人はやがて眠りに落ちていった。しかしながら昌行は、誕生日に様々な出来事が重なったことで、この後何年も、3月が近づくと心身に不調を来すようになってしまったのだ。つまりそれは、自分が生を受けたことで、この未曾有の惨事が起きてしまったという、一種の回路ができてしまったことを意味している。昌行がこうした不調に気づくのには、数か月を要したのだった。
04
順調に見えていた昌行の地域生活支援センターへの通所は、震災のためもあってか、一時途絶えてしまっていた。その間、昌行はブログやSNSの設定変更に逃げ込むように集中していて、当事者会の「しずく」の打ち合わせにも参加できてはいなかった。
「昌行さん、うつが出てきたんですかねえ」
新田壮介が吉岡啓と語り合っている。どうやらこの2人は、打ち解けてきているようだ。
「それにしても、原発事故の情報は、何が正しくて、何がデマかわからないですよねえ。こないだも『今すぐ関東から逃げた方がいい』って、わりと落ち着いてると思ってた人がコネクトに書いてました」
「それはどうなんだろうね。壮介くんはどう思ったの」と啓が続ける。
「いや、わからないから聞いてみたんですけどね。あ、すいません、そろそろ時間ですか? 由紀江さん」
「新田さん、ありがとね。今日は見学に来てくれた方がいます。簡単に自己紹介をしていただきますから、よろしくお願いしますね。この会の主な目的は、ピア・サポートと言って、当事者同士で支え合おうというものです。いたずらに批判し合ったり、かといって慰めあったりしないようにしたいですね。では、今日の見学者からごあいさついただきますね」
由紀江が紹介した若い女性が、軽く会釈をした。由紀恵はさらに続けて、
「お名前は、今日どんな名前で呼んでほしいか言ってください。ニックネームでもいいですよ。聞く側は、その人が話しやすいように聞いてあげてくださいね。遮らないようにしてくださいね」
と語った。由紀江と壮介、啓、雅実が順に自己紹介をした後で、見学に訪れた須藤めぐみが口を開いた。
「みなさん、初めまして。《ミューズ》って呼んでくださるとうれしいです。学校を卒業した後で、うつになってしまったようで、私もコネクトで知ってから、由紀江さんとビデオ通話させてもらって、それで参加してみました。よろしくお願いします」
「ありがとう、ミューズさん。言いにくいことや言いたくないことは、無理して言わなくてもいいですからね」
「はい、中井さん。わかりました」
「あと一人、谷中さんって男性の中心メンバーがいるんですけど、震災の後、あまり調子がよくないようなんです。ミューズさんは、あの時はどうされてましたか? 大丈夫だったかしら? 差し支えなければ、お話しなさってみませんか?」
既に由紀江とは、何度か話をしてきている様子の《ミューズ》は6歳の男子の母親と語った。この日は実母にその英(すぐる)を預けてきているようだった。
05
「震災から3か月経ちましたが、いろんな問題をそれぞれが抱えていると思うんです。私たちは、いえ、私はそれに寄り添いたい。解決できるとは言い切れませんが、孤独や孤立は、この場合は毒になると思います。みなさんが今日こうして集まってくださったことに感謝しています。どなたかお話しをされたい方はいますか?」
雅実がこう切り出すと、吉岡が語り始めた。
「震災とは直接関係ないんですが、ぼくはうつ病じゃないんじゃないかって疑ってます。20歳の時から、もう10年ですからね。薬をあれこれ変えてみても、なかなか決定打が出ない。うつって、治る病気だと思ってたんだけどなあ」
「ああ、それはキツいですよね。ぼくは診断されたばっかで、これから先が不安ですね」と、壮介が言葉を継いだ。今日も打ち解けた雰囲気で、会が進行していっている。
この会が心がけているのは、「ジャッジしない」ということだ。そうしたくなるだろうが、アドバイスをすることは、極力避ける。これは、雅実たち3人の合意であり、目標であった。
「私もいいでしょうか」と、《ミューズ》が口を開いた。「私、うつって言われて3年目になると思います。6歳の男の子がいます。今年から小学校に上がったんですが、朝送り出すのがしんどいんです。送り出してから、横になってしまいます。家事は、義母が分担してくれてるんですが、夫の帰りが遅くて、晩ご飯が2回になっちゃうんです。お風呂入るのも、もう面倒で面倒で。いけないと思いながら、そう感じてしまいます。私はダメな人間なんだなあって・・・」
「ええ!? 《ミューズ》さん、すごくがんばってるじゃないですか、立派ですよ」
「ほんとですか! そんな風に言われたの、私、初めてです・・・」
由紀江の言葉に、《ミューズ》は目を潤ませ、しばらく次の言葉が出てこなかった。
「義母はやさしい人なんですが、主人が・・・。食べた後の食器を運んでもくれないし、食後はゲームしてて私の話を聞こうともしてくれない。辛いです」
「少しずつでいいから、思ったこと、感じたことを言葉にできるようになるといいですね。そこから何か、心がほぐれてくればいいと思うんです。《ミューズ》さん、少なくともここには、《ミューズ》さんを理解しようとしている人たちが、4人はいるってことを持ち帰ってみてね。それを忘れないで」
この日のセッションは、こうして《ミューズ》その人を受け止めることを中心に終わっていった。
06
《ミューズ》こと、須藤めぐみが「しずく」に参加して、2か月が過ぎた。今は盛夏である。昌行は、なおも地域生活支援センターへの通所が安定していなかったが、9月になると、その支援センターで「すっかりよくなってしまいました。もう薬もいらないだろうし、再発することもないと思うんですよね。今までご心配いただき、ありがとうございました!」と語ったという。
「うーん。谷中さん、ホント大丈夫なんですかね」
自身を双極性障害ではないかと疑っている吉岡が、雅実に告げた。
「躁転してるんじゃなきゃいいんだけど・・・」と、吉岡は言葉を濁した。
果たせるかな、好調に見えたその時期は長くは続かず、むしろしばらくぶりの長い鬱の時期が昌行に訪れた。どうやら昌行にも、躁と鬱の周期があるようなのだ。しかし今回鬱の周期に入ったのは、もう一つの理由があった。そのことは、この病的状態の周期が明けた、2012年5月の連休が終わった頃に昌行に把握されるようになった。
自分の誕生日というまさにその日に、あの大震災が起こったことが、この2つは分かちがたく結びついてしまい、今回の鬱の周期が始まったことのほとんど原因であると、昌行には思われていたのだ。つまり、昌行には自分が生を受けた《から》あの災厄がもたらされたとの思いが、拭いがたくなってしまったのだった。しかしその思いについては、昌行からは誰にも語られることはなく、カウンセリングで話題にできるのにも、実に数年を要したのだった。
こうして昌行には、一時的な精神的な空白期が訪れてしまった。雅実や由紀江は、そんな彼を思いやって、あれこれと関わることを控えていた。それがよかったのかもしれない。昌行が以前から継続してきたブログの執筆や、再開できて数年になろうとしている読書は、確実に昌行を内面から支えていた。
2012年11月頃には、ようやく昌行も「しずく」の打ち合わせに、安定的に参加できるようになっていた。しかし、地域生活支援センターへの通所は止めにすることにしていた。それを告げた「しずく」の打ち合わせの席上で、昌行は新しい提案があるとしてこう語り始めた。
「勉強会っていうか・・・、読書会ってやれないかなと思うんですよね」
「読書会ですか? それって、本を朗読しあうの?」と由紀江。
「いや、そうでなくてね。何でもいいんだ、何となれば、精神疾患についての本でもいいし、やさしい本を一冊決めて、みんなで意見や感想を語り合いたいんですよ。この会とリンクしてでもいいし、独立させてするのでもいいし・・・、どうだろう。今のぼくにできそうに思いますか?」
その場に居合わせた由紀江と壮介は、興味津々といった面持ちで賛意を示した。
07
読書会を始めたいという昌行の発案は、さしあたっては「しずく」とは独立した形で実施するということに落ち着いていった。
「昌行さん、何でまた読書会を始めようと思ったの?」
今回の昌行の発案は、病的な勢いから発したものではないと察した雅実が尋ねた。
「ああ、それは2つあるんだよね。1つはね、例えば、何人かで映画見たり食事したりすると、ああ、おもしろかったねとか、おいしかったねとか、自然に話したくなるじゃない。読書もそうで、思わずよかったとか、おもしろかったとか、話し合える人間関係っていいなと思うんですよ」
「うんうん、いいね。で、あと1つってのは何?」
「それはね、この当事者会とかSNSとか見ててなんだけど、前は読書好きだったんだけど、病気してできなくなっちゃった、イヤになっちゃったって人が一定数いるってことなんだよ」
「ああ、そうだよねえ」
「でね、ぼくはいつの頃からなのか、まあそれはブログによると、2006年に『ゲド戦記』が公開されて、それで原作を全部読んだって・・・」
「え!? 全部読んだの!?」雅実は驚いて、口を挟んでしまう。
「そう、全巻ね。別巻入れて6冊だったかな。それから、不思議と読めるようになったんだよね。で、そのからくりを言葉にして、シェアできたら、何か役に立ててくれる人がいそうじゃない?」
雅実は呆気にとられていた。つい先だってまで、躁だの鬱だのと言っていた昌行が、こんなにも伸びやかに自らが欲するところを、活き活きと語っているのだ。確かに誤算なのかもしれないが、それはまさしく、うれしい誤算であった。
雅実は由紀江と、昌行のこの着想を何とか実現させたいと語り合った。幸い、「しずく」の「準レギュラー」とも言ってよい吉岡、壮介、《ミューズ》こと、須藤めぐみらは、みな昌行の発案を支持してくれていた。
第1回の開催は、2013年の1月、「しずく」の分科会的に共催するような位置づけとすることが決まった。その検討過程で、昌行はさらにオンラインでの実施も想定したいと語り、さらに周囲を驚かせた。
「日付を変えれば、オフライン、つまり対面での開催と、オンラインでの開催が並行してできると思います」
読書会でさえ、まだ未経験だというのに、それをオンラインで実施する。そんなこと、聞いたことがない。雅実と由紀江は躊躇したが、昌行が言葉を継いだ。
「オンラインの会場に来れない人にこそ、アプローチしたいんです。病気や経済的な要因とか、外に出づらい人に声がかけられればね」
「う~ん、正直不安はあるけど、少しずつやってみましょうね。で、昌行さん、1冊目には何を選ぶの?」
「雅実さんには話しちゃってるんだけどね・・・、『ゲド戦記』の第1巻かな」
08
昌行は、対面での読書会の実施と並行して、オンラインでも開催したいと発案していた。ビデオ通話ツールを使えば、全国からの参加が可能になる。会費を徴収しなければ、移動や食事等にかかる費用の節約にもなる。メンタルの病を抱えた人にとって、外出の障壁は少ないに越したことはない。昌行はそう考えていた。
しかし、読書会というもの自体がまだ一般には知られていないことにを考えると、それをオンラインでしようというのは、いささか時期が早過ぎたのかもしれなかった。「しずく」参加者に限っても、希望者がなかなか集まらなかったのだ。人集めという問題にこそ直面していたが、昌行の士気はいささかも衰えなかった。
読書会は、原則として月に1回、1冊程度を読み進めていた。昌行はそれとは意識していなかったが、以前就労していたコールセンター運用の企業での経験や、産業カウンセラーの勉強といったことが、特にオンラインでの読書会運営には役に立ったようである。昌行が心がけていたことの一つは、参加者の自発的な発話であった。また、決まった1つの結論を導くのではなく、常に暫定的な意見の集約に留めておき、それにいつでもアクセスしたり修正したりできるようにしておくことだった。
吉岡啓は、始めの内は恐る恐る参加していた。うつの症状が出るようになってから、吉岡はほとんど読書ができなくなっていたからだ。そして、そのことは、吉岡本人の自己評価を著しく下げてしまっていた。しかし、この読書会に参加したことは、吉岡には大きな刺激となったようである。
「谷中さん、ぼく、最初はその場にいて聞いているだけでもいいですか? 本を読んで参加はできないと思うんですけど」
「もちろんそれで構いませんよ。参加だけでも大歓迎です」
「ありがとうございます。じゃあ、できる限り顔を出すようにしますね」
果たせるかな、初回の開催で吉岡は何も話さなかった。しかし、「しずく」の席上で、会に参加してよかった、楽しかったと語るようになっていた。
「ぼくは元々、『ゲド戦記』のようなファンタジー物って、ほとんど読んでないんですよね。それにほら、アニメ映画があまり評判よくなかったじゃないですか。なので、たかを括ってたんですよ。でも、谷中さんのお話しはおもしろかったです。実際に読んでみようかなって思えました。本を読んでみようと思ったのは、病気関係以外のものでは久しぶりでしたからね」
「それはうれしいなあ、慌てないでいいから、少しずつでも読んでみてくださいよ。もし読み切れなくても、自分がダメだとは思わなくていいんですからね」
吉岡は、こうして少しずつではあったが、ある種の回復の軌道に乗ったかのようであった。
09
初回の読書会で、『ゲド戦記』第1部『影との戦い』を取り上げて好評を博したことに気をよくした昌行は、次の2013年2月の回では、岩波ジュニア新書の『正しいパンツのたたみ方』という風変わりなタイトルの著作を課題テキストとして指定した。
「昌行さん、これ、大丈夫なの?」
「ふざけたタイトルだと思うだろうけど、真面目な家庭科の本だよ。読めば家庭科って科目をもう一度まじめに勉強したくなるはずですよ、雅実さん」
昌行は楽しげであった。
「この本はね、生活における自立ってことを深く考え直すきっかけになると思うんだ。ぼくのようにメンタル病んでる人って、生活を立て直すことにとても苦労してるんだけど、その参考にもなりますしね」
「へえ、昌行さん、高評価なのね」
「そうだよ、これはもう名著って言ってもいいだろうね」
著者の南野忠晴は、もともと高校の英語の教員だったのだが、朝食を抜いてくる生徒らを見ていて、生活指導を体系的に進めないといけないとして、家庭科に転じた変わり種だった。南野によれば、家庭科とは、身体の感受性を磨き、生活力を高めるための教科であるという。昌行が感じ入ったのは、まさにこうした着眼点に関してであり、精神の疾患で失調してしまった生活を再建するには有効であると評価していたのである。
幸いにして、このテキストの読書会も、概ね好評であったと言ってもよかった。しかし、昌行の体調は芳しくなかった。もともと、うつ病患者には日照時間が減る冬の時期に体調を崩す人が多い。昌行もそれと思い込んでいたのだったが、どうやらそれだけではないと彼は感じていた。ようやくそれを言語化して、カウンセリングでも話題としたのがこの頃だったのだ。2011年3月11日の誕生日にあの震災が起きたこと、その夜に、初めて女性と肌を合わせていることなど、これらが重なったことが、この不調の原因なのではないかと、昌行はカウンセラーの浜口佳子に語れるようになった。
もちろんそのことで、即問題が解決ということにはならない。しかし、言語化し得たことで、問題として認識できたことは間違いはないだろう。
「谷中さん、とてもたいへんなご経験だったと思います。よく話してくださいましたね。私、思うんですけど、このことって解決とか克服とかしないといけない問題なのかしら」
「どういうことですか?」
「うまく言えないんですけど、それを問題として否定するんじゃなくて、抱きかかえるようにして、一緒に生きていくことも可能なんじゃないかって思うんです。結論を急ぐことはありません。しっかりサポートしますから、考えていきましょうね」
「はい、ありがとうございます」
この後、昌行はほとんど毎年のように、誕生日が近づくと心身の変調に見舞われることになるのだが、それを不幸とは考えてはいなかった。それは、浜口の存在があったことに起因していることは、言うまでもないだろう。
10
「雅実さん、よかったら私のこと、お義母さんて呼んでくださいな。その方がうれしいわ」
スカイツリーの見学を口実にして上京するという、雅実と離縁した斉木和正の実母・美代子は電話口で語った。
「それにね、あなたのことを気に入ってる知人もいるのよ。息子の嫁にって言ってね」
「美代子さん、そんな」
「お願い、お義母さんって言ってちょうだい」
2014年、秋の気配に覆われつつあった9月、ウィーン・フィルの東京公演鑑賞も兼ねて、斉木美代子は上京する際に雅実に会おうとしていた。美代子は雅実を、すこぶる気に入っていたのだが、和正の発症が2人の仲を引き裂いた。和正が地元・佐賀に去ったのは2007年だったが、美代子は常に雅実を思っていたのだった。
「由紀江ちゃん、斉木のお義母さまが会いたいっておっしゃるの。私、どうしたらいいんだろう」
「お義母さん、悪い人じゃないし、いいんじゃないかなあ」
「それがね、どうも私に再婚話を持ちかけようとしてるらしいんだよ」
「そうかそうか。あれから何年になるんだっけ?」
「2007年だったから、7年かなあ」
「昌行さんはお義母さんのこと知ってるんだっけ」
「斉木と離婚したことまでは知ってるんだけどね」
「悩ましいねえ。その再婚話、昌行さんには言っておいた方がよさそうだねえ」
「そうなのかなあ」
結局雅実は、美代子から話されていることを昌行には包み隠さずに伝えることにした。
「雅実さん、どうも明日のウィーン・フィル、行けそうにないの。無駄にできないから、誰か券をもらってくださらないかしら」
「美代子さ・・・、いえ、お義母さま、体調崩されたんですか」
「ちょっとね、疲れたのかしらね」
心当たりがあると言って雅実はそのチケットを引き受け、昌行に手渡すことにした。
しかし、体調を崩したのは美代子ではなく、美代子と同席する予定の知人だった。思いがけず、昌行は雅実の前夫の実母と会うことになったのだ。
「あらあらあら、あなたが谷中さんなのね。お目にかかれてうれしいわ」
「お話しは千々和さんからうかがっています。和正さんはお元気でいらっしゃるんですか」
「はい、それはもうおかげさまで」
「それは何よりです。少し事情を聞いてしまっているものですから」
「あなたも、ご苦労なさってるんでしょう。他人事とは思えないわ」
「ありがとうございます。まあ、でも今日はせっかくですから、演奏を楽しみましょう」
「そうね、ありがとう」
ドゥダメルの振ったウィーン・フィルは、壮麗なシュトラウスとシベリウスを聴かせたのだった。
11
「すてきな演奏でしたね。今日は昌行さんとお会いできてよかったわ」
所与の目的を一つ果たし終えた美代子は、満足げであった。美代子の上京の目的とは、実はスカイツリーでもウィーン・フィルでもなかった。雅実が長崎に帰ってこない理由を確認することこそが目的だったのだ。そして、それは計らずも昌行との出会いで果たされることとなった。
斉木和正と別れたことを知った後にも、雅実を案ずる美代子の知り合いは何人もいた。雅実が帰郷して、新しい人生の扉が開かれることを願っていた者もいたのだ。しかし美代子には、雅実が帰郷しない、あるいはできない理由があることが直感されていた。その理由を確かめに、美代子は上京したのである。
「そのことなら雅実さんに直に伝えてあげてください。今日は楽しかったです。ありがとうございました。私もお会いできたことがうれしかったです」
「ありがとう。でもね、私は素直じゃないのよ。雅実さんには帰ってからお手紙を書くわ」
美代子は簡単なあいさつだけを済ませて、翌日帰郷していった。
数日の後、雅実の元に美代子からの書簡が届いた。
前略、千々和雅実さま。
先般はあわただしい東京滞在におつき合いくださり、ありがとうございました。思いがけず、昌行さんにお会いできたことも、よい思い出となりました。くれぐれもよろしくお伝えくださいね。あなたたち2人にお会いするのは、これが最後の機会になるかもしれませんが、思い残すことは何もないでしょう。
ごめんなさい、今、私は嘘をつきました。昌行さんにお会いできたのは、「思いがけず」じゃなかったのよ。この上京の目的は、実は昌行さんにお会いすることだったの。それがこんな風にお会いできて何よりでした。
これから書くことは、私の遺言だと思ってほしいわ。私はもう、あなたの耳に雑音は入れません。昌行さんとお会いして、はっきり決めました。あなたはそちらで、昌行さんたちと幸せになってください。もう、斉木の呪縛からは解放されていいのよ。斉木があちらに行ってしまおうとしたことの責任を感じていることはありません。あなたは幸せになろうとしていいの。
あなたは私にとって、とても善い娘でした。一時だけでも娘であってくれたことを、私はとてもうれしく思っています。そして、斉木にとっても立派な妻でいてくださいました。私も斉木も、あなたの献身を生涯忘れることはないでしょう。それだけに、雅実さん、あなたには幸せになってほしいんです。
でも、あなたはもう幸せをつかんでいらっしゃったのね。私はそれを確信できて、本当にうれしかったのよ。昌行さんを離したらダメよ。あなたがお義母さまと呼んでくださったのは、私の誇りです。ありがとう。
早々
エピローグ
「吉岡さん、ぼくね、今度主治医が代わることになったんですよ。それでね」
昌行が「しずく」の集いが終わったあとで吉岡に語りかけた。2014年12月のことだった。
「次の先生には、うつ病ではなくて双極性障害として申し送りをしたそうなんですよね。それで、薬の内容も変更することにしますだって」
「そうなんですね、治療がうまく進むようになるといいですね」
「ありがとう、これで病識が深まるといいなと思ってますよ」
「それにしても、診断が変わるまで時間がかかりましたね」
「うん。これで腑に落ちることも出てくるんでしょうね」
この診断名の変更を、昌行はむしろ歓迎していた。新しくなった診断名の双極性障害と、うまく折り合いをつけていこうと昌行は考えているのだった。
「吉岡さんはどうなんですか?」
「ぼくもうつ病ではないと考えてて。診断名が変わるんだったら、早くそうしてほしいと思いますよ」
吉岡は、「しずく」や読書会に参加していることで、荘介のような知り合いもでき、以前よりは症状が軽快化しているように見えた。それは、荘介も同様であった。
陰に陽に「しずく」を支えている由紀江は、雅実に届いた美代子の手紙の内容を知って大泣きしたという。須藤めぐみの家庭の状況は好転の兆しはないものの、めぐみ本人には、いくばくかの明るさが戻ってきているように思われた。
雅実は、年末のあわただしさの中にあって、私は善き人々に恵まれたものだと喜びを噛みしめていた。
仏教では、善き友人のことを「善知識」と言って尊ぶことがある。それは、成道、つまり自身の成仏を決定的に左右しさえするものだという。私はこの人たちと、共に生きていこう、共に歩んでいこう。雅実は改めてそう考えていた。
私は、確かに一面ではこの人たちに影響を与えているかもしれない。しかしそれ以上に、私の方が影響を受けるどころか、強く支えられているのだ。この、天恵とも言うべき善き人たちと、私は生きていく。私は、大丈夫だ。
あとがき
23/07/13にこのブログを立ち上げて、創作「のようなもの」に取り組み出してから約3か月となりました。最初は中編くらいの長さのものを徐々に書き増していく予定でした。ところが、何のひらめきかはわかりませんが、1回1000文字程度のものを、新聞連載のように書いていくことを思い立ちました。これは功を奏したようで、全体としてはこの「あとがき」が67記事目ということになりました。分量としては、「熾火」「熾火Ⅱ」が1万7千字程度、「熾火Ⅲ」が1万5千字程度に達しました。何よりも、今まで1回でもお読みいただいたお一人お一人に、お礼を申し上げたいと思っています。ありがとうございました。
このあと私は、この「3部作」を単一のファイルに統合して、朱を入れる作業をしたいと考えています。それは、小冊子ないしKindle版として出す準備として行うものです。しかるべきタイミングで、また改めてご案内申し上げますので、ぜひよろしくお願いいたします。
連続創作とした「熾火」3部作では、谷中昌行とその家族及び、千々和雅実らを中心とした物語を綴ってまいりました。先日、登場人物を確認したところ60名ほどになっていました。この人々のうちの、何人かの「その後」について、近く「新・熾火」として公開できるよう、構想を練っているところです。安保法制や宗教二世問題などについても、考えを進めていく予定でいます。変わらぬご指導、ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。
2023年10月18日
(「新・熾火」へと続きます)