創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

早過ぎる「あとがき」

こんにちは。

今回は、このブログを立ち上げようと思うに至った経緯のようなことを書いてみようと思っています。

私はさまざまな機会を捉えて、さる仏教系の教団に属していると発言してきたつもりです。そう意識して発言するようになったのは、昨年の安倍元首相銃殺事件(とは、「用語」として確定したのでしょうか)があり、その犯人(容疑者??)が統一教会に関与していたことが報道されてからでした。この時に私は、これから先、宗教に関わる人たち「一般」への風当たりは強まるだろうと、心身が強ばる思いがいたしました。

日本は宗教については寛容と言われることがありますが、それはあくまでも「一面的」な見方であり、その「一面」から一旦外れてしまうと、途端に非寛容になってしまうように私は思います。日常会話から、政治及び宗教に関する話題が、徹底して排されていることを、その証左としたいと考えます。果たして、「宗教2世」ということが、かなりの程度一般にも認知されるに至りました。

こうした、新しい概念、ものの見方が現れることで、「救われる」方々は相当数いるかと思います。かつての「毒親」も、そうした概念の一つでしょう。しかしその一方で、萎縮している人たちもまた、一定以上いるように思われます。私がそうでした。

詳細については、本文(または、「本論」)を待ちたいと思いますが、私はかつて、相当程度に当該教団の維持・発展に注力していました。先行世代からの信仰の伝承、後発世代への継承ということにも、意識的に取り組んでいたように思います。

そんな私が考えていることは、他ならぬ「宗教2世」当事者の方々との橋渡しであり、対話ということです。

もちろん、「トラウマ」ケアという、極めて専門的な部分については、遠慮すべきだと思います。しかし、同じ地平に立ち、対話することで、双方にプラスになることはないだろうか。楽観的に過ぎるかもしれませんが、そうも考えているのです。

なぜその「対話」にこだわるのか。それは、私は自身を「境界人」として認識しているからです。私は、当該教団に属しているということで、既に少数派であり、その中にあっても、特に支援している政党の政策やその政党との関係性において批判的です。つまり当該教団の「正統派」ではないのです。とはいえ、その教団から飛び出て批判を展開することも選択していません。つまり、二重三重の意味合いで、「境界」「少数派」の立場を選択しているのです。しかし、そのことは「インターフェイス」でもあり得るということを意味しています。どの立場も「わかる」からです。

いま、この国と社会とに欠けているのは「対話」です。罵り合いではなく、「自分を変える」カードを保ったままの「対話」です。私は、自身の体験を総括していく過程で、その対話を喚起していきたい。そう考えています。

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この記事は以上となります。最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。それではまた!