創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

創作のまねごと:未題第2稿

こんにちは。

「未題第2稿」をお届けいたします。以下の第1稿では、主人公の谷中昌行に一人称で語らせていました。

 

invention2023.hatenablog.jp

この第2稿は、その後に外部の「語り手=ナレーター」を登場させて綴っています。書いているうちに、内容が多少違ってきてしまいましたが、第1稿と第2稿のどちらを優先させようとは決まっていません。場合によっては、「第3稿」を起筆して発展させることもあると思います。追々書き連ねていこうと思います。

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 昌行がこの街に移り住んでから15年ほども経とうとしているが、まだ馴染めずにいるのは、彼が生活保護を受けていることとも関係があるようだ。同じ区内での移転とは言え、前の街は商店街であった。しかし今住んでいるのは、庭に樹木が植えてあるような、言わば屋敷のような邸宅が立ち並ぶ住宅街である。散歩をしていると、腰の高さほどの大型犬を連れている夫婦と出くわすこともあるが、もちろん昌行は、彼らとあいさつを交わすことはない。
 周囲の「邸宅」には、一様に「岸野」の表札がかかっている。おそらくは、この街が「村」であった頃から、地主として住みついていたのだろう。昌行が移り住んだアパートも、岸野ハウスという。
 昌行が追われるようにして職を辞したのは、もう20年も前のことになる。いわば黎明期にあったコールセンターで、対応要員の監督・指導や、クレーム対応やらを一手に引き受けていた昌行の心は、あっけなく壊れたのだった。まだ、「うつは心の風邪」というキャンペーンがはられていた時期である。復職の制度も整ってはなく、いたずらに職場復帰を焦った彼は、十分な休養が取れるより前に職場に戻ってみたものの、遂に復職が叶うことはなかった。
 折悪しく、昌行の実家のパン屋も経営不振に陥っていた。山手線に接続する私鉄沿線にある商店街で、夫婦で手堅い営業を続けていたタニナカベーカリーだったが、バブル期の無謀な増改築のために返済が滞り、遂には競売にかけられることとなった。しかし、それでも返済には不十分で、谷中家は所帯を複数に分割して、それぞれに生活保護を受けることとなった。
 皮肉なことに、その決断は谷中家に平穏な日々をもたらした。そして一年が経った夏、タニナカベーカリーの主・義和は、80歳を手前にして静かに逝った。小さな開業医が発見した心臓の異変は、他区にある専門病棟への転院が必要とされていたのだが、足繁く見舞っていた妻・峰子との平穏な3か月を過ごした後、ICUを生きて出てくることは叶わなかった。それでも義和と峰子にとっては、ほとんど初めて過ごせた平静な日々だったのだと、昌行には思われた。
 その義和と峰子には、昌行を始めとして4人の実子があった。夫妻はその4人の子らを、全て私立高校に通わせた。教育熱心だったわけではないのだが、夫妻が家業を子らに継がせたいと明言したことはなかった。中でも、長子であった昌行は、いかにも当然の権利ででもあるかのように、4年制の私学に5年間通っていた。昌行は、実は大学院への進学も希望していたこともあり、意図的に留年したのだったが、夫妻の口からそのことについての愚痴や文句が出たことはなかった。
 進学を志すようになった頃には、さすがの昌行にも、4人の実子を全て私立高校に通わせていたことの意味がわかるようになっていた。ちょうどその頃は、タニナベーカリー」の借地権更新の時期となっていた。更新するだけでも、相応の額の更新料がかかる。しかしその頃は、後に狂乱地価と言われた時代であった。地域の信金や銀行の責任者や支店長が日参し、「ぜひ私どもでご用立てください」と頭を下げに来ていた。それを昌行が誇らしく思うようになったのも、無理からぬことだろう。
 結局、二転三転した後に、みつば銀行から約一億円の融資を受け、店舗兼住居を増改築し、小さなビルにすることになった。その計画と設計図を見て、昌行は不安に思った。元の資金が乏しいにも関わらず、雪だるま式に計画が大きくなったことが理由の一つである。しかしその頃の昌行は、自身の進学の問題が心を占めており、この増改築については、真剣に向き合う機会を逸してしまったのだった。そのことも、後年父が逝った時に感じた「苦さ」に結びついていた。

 「お前はお父さんのこと、何も知らないんだねえ。」
 確かに峰子はそう漏らしたのだった。そうなのだ。昌行は、父のことはもちろん、母のこともよくは知らないままだったのだ。
 生活保護を受けていた関係から、父・義和の葬儀では、いわゆる通夜や告別式は出さなかった。いや、正確には「出せなかった」のだ。
 この前年、義和の実母・光江が息を引き取っていた。谷中家が対外的に葬儀を出したのは、この時が最後だった。義和から見て「本家」筋にあたる親戚連中と、気ぜわしく顔をつなごうと立ち振る舞っていたのは、峰子だった。昌行は、それを見て初めて、峰子の秀でた社交性に気がついたのだ。喪主としての義和のあいさつが、控え目と言うだけでは足りないのを見て、「次」にあいさつをするのは自分なのだと、昌行は思っていた。つまり義和が逝った時の遺族からのあいさつは、峰子に代わって、自分が為すべきだろうことを昌行は思ったのだった。
 昌行が、自分が長男であることを痛切に感じたのは、これが初めてではなかった。義和がICUにいる間、峰子と弟妹たちと担当医と会っていた時、昌行は自らの役割を引き取るように、「ではどうなれば峠を越したことになるんでしょうか」と尋ねたのだった。生死の分け目は、どのタイミングで訪れるのか。それを峰子に尋ねさせるのは酷であり、弟妹たちにもできるものではないと、昌行は判断していた。「目を覚ましてくだされば」とだけ、医師は応えた。それはつまり、このまま目を覚まさないこともあると言うのと同然のことだ。やはり、それを切り出したのが自分でよかったと、昌行は確信した。
 果たして、義和を送る会での遺族からのあいさつには、昌行が立った。峰子は憔悴していたのではなかったのだが、どちらからというのでもなく、自然に昌行があいさつに立ったのだ。その「送る会」は、義和たちが入信していた桐華教会の地域支部の施設で執り行われた。

(第2稿下書きはここまで)

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第1稿のみ、第2稿のみの要素がそれぞれに見られます。私としては、それらを包括的に扱いたいとも思うのですが、どうすべきか迷っています。メモを作り直して、第3稿にかかるのがいいかもしれませんね。

今回もお読みくださり、ありがとうございました。それではまた!