創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

創作のまねごと:未題第1稿

こんにちは。

以下に掲げておくのは、この5月から6月くらいにかけて書いてみた、「創作(のまねごと)」と「論考」の中間のような文章です。若干語句の修正をいたしました。第2稿があります。だいたい似通った内容のことを、視点を変えて書いてみた次第です。おおよそ2700文字程度です。お読みくださいますと幸いです。

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 「昌行は父さんのこと、何も知らないんだねえ。」 

 母の峰子は、確かにそうつぶやいた。 

 狂乱地価の「ブーム」に乗った無謀な増改築がたたって返済が不可能となり、店舗と住居は競売にかけられたものの、それでも額が足らず、わたし達の家族は、分所帯をした上で、何人かが生活保護を受けるようになった。その翌年、父の義郎は逝った。76歳だったと思う。

 増改築の話が出たのは、わたしが学部の卒業を控えていた年だった。地域の銀行や信用金庫の支店長が、入れ替わりで日参して、「どうか私共にご融資をさせてください」と頭を下げていた。それを誇らしく感じていたのは、わたしだけではないだろう。

 山手線に接続する私鉄の沿線にある商店街で、手堅くパン屋を営んでいた両親であったが、借地権の更新が、いわゆる「バブル経済」とぶつかってしまったのをどう評価するべきなのか、わたしにはわからない。一つだけ言えるのは、義郎は逝く三か月前に心臓の手術のために入院していたのだが、その三か月は、峰子との平穏な時間を過ごすことができたということだ。それはきっと、義郎にとっては「幸いな」時間であったに違いない。

 とは言え、生活保護を受けているとは、火葬すること以外はできない、つまり通夜とか告別式は出せないことを意味している。峰子が自分の兄妹たちを、どんな気持ちで葬儀に迎えたのかを思うと、わたしは胸が痛くなる。

 幸か不幸か、その当時、わたし達が信奉している桐華教会では、教団内で教義解釈を巡っての騒動があったため、義郎を「送る会」を教団の支部施設で執り行うことができた。遺族のあいさつには、峰子に代わってわたしがあいさつをしたのだが、峰子の兄妹たちは、口々に立派なあいさつだったとほめそやしてくれていた。

 その葬儀から、15年は経ったのだろうか。正直、きちんと覚えていないのだ。その前後にも、様々な「困難」に襲われたので、単にたいへんだった時期として、一括りにしてしまっているからなんだろう。それに、その「たいへんさ」を辛うじてとは言え、乗り越えてきたと感じてもいるので、いつの間にかあいまいになってしまったのだろう。

 先週の金曜の午後、そう高くはないと油断していた血圧が、上の数値が160になってしまっていたことがわかり、降圧剤をもらうことになった。そのことを話すつもりで立ち寄ったのではないが、母と弟・昇のいるアパートで、義郎の命日について話をしたのだ。8月だったことだけは覚えているのだが、何年の何日だったのかが、定かではない。しかし、峰子が「お前は何も知らない」と切り返してきたのは、死去の日付を失念していたことを言ったのではなかった。

 昭和8年に生まれた義郎は、今生きていれば90歳だ。峰子は今83歳。義郎が逝った年齢を、とうに越している。健康でいてくれているのは、実にありがたいことだ。精神疾患を得て婚期を逃したわたしだけでなく、弟妹にも子どもはないので、峰子はついに孫を抱くことはなかったのだ。わたしにはそれが残念であり、申し訳ないとも思われていた。母との会話で、どこかうしろ暗さのようなものを感じることがあるのは、そういうことも起因しているのだろう。子どもがあれば、結婚していれば、病を得ていなければ、そして、当初の志をかなえていられれば。こうした不本意を積み重ねてしまったことが、母に対して、一種の申し訳なさの堆積として感じられて、つい口ごもることもあるのだった。

 とは言えわたしは、自分の部屋で一人で過ごしている最中に、そうした後ろめたさに捕らわれていることはあまりなかった。つまり、わたしは一人でいる時の顔と、家族たちに見せている顔とが、まるで違っているのだ。昨年の4月に、それまで10年以上担当してもらっていた後を継いだカウンセラーの山形さんにも、それでいいんじゃないかと言われている。あまりわたしは「自己肯定感」という言葉に信頼を置いてはいないが、今ならばこの「自己肯定感」は、高めで安定していると言えるのではないか。

 30代になる頃、わたしは正社員としての二つ目の勤務先として、株式会社サプライシステムズに転がり込んだ。実のところ、わたしはいわゆる就職活動をしなかったし、親類を見渡しても、会社勤めをしている者はなかったため、会社の選び方や転職の仕方を知らなかったのだ。転職をしたいと考えたのは、正社員としての一つ目の勤務先で、「30歳になるタイミングで、この会社に居続けるか転出するかを考えよう」と決めていたからだった。キャリア形成のことなど、まるで考えてはいなかった。果たして、サプライシステムズ社は、前職とはほとんど関係のない職種となったのだ。そこで得た業務内容は、現在言うところの「コールセンター」の運営だった。

 転職を果たしたのは、1996年4月だった。ちょうどWindows95が発売された最初の年度替わり、国内の各パソコン・メーカーは、爆発的に売り上げを伸ばしていった時期である。各社とも、問い合わせ窓口を用意していたものの、どの社にあっても「問い合わせの電話がつながらない」という苦情に悩まされていた頃なのだ。わたしはその問い合わせ窓口の一部門に配属された後、どうしたわけか、頭角を現すこととなったのだった。

 順調に思われた転職だったが、やがて気力も体力も限界を向かえた。数年を経た夏の朝のこと、目を覚ましたことを激しく後悔したのだ。翻案すれば、このまま目を覚まさなければよかったのに。そんな感じだろうか。しかし、その時にはそんな言語化さえできなったはずなのだ。二か月を経て、わたしはようやくメンタル・クリニックを訪ねることができた。そこで下りた診断が「うつ状態」だった。

 その頃は、「うつは心の風邪」というフレーズが流行っていたのだった。そこでは、うつは脳内の伝達物質の加減によって感情が左右されると説明されていた。その説明は、社でも一定の説得力を持っていたのだが、復職を焦り、十分な休養ができず、二度の復職の失敗を経て、追われるように社を去った。

 とは言うものの、後年実のところ、うつだけではなく、双極性障害という別の病名であることが判明した。何でこんなに「一生懸命」静養しているのに、全く症状が改善しない。怪訝に思っていたものの、何のことはない、診断が違っていたのだった。それでは、よくなろうはずはない。診断名の変更は、病気とのつき合い方そのものを変えることとなり、結果としてわたしの「生活の質」、あるいは「人生の質」は向上へと動き始めた。

(一旦終了。改稿する予定)

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以上の文章は、「ほぼ」一気に書いたものと記憶されています。お蔵入りさせておくのももったいないので、プロトタイプとして公開することにいたします。ご指導をいただけますと幸いです。それではまたいずれ。