創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

創作「熾火Ⅱ」(03)

こんにちは。「熾火Ⅱ」(03)をお届けいたします。中心人物の谷中昌行の若い頃について綴っていた(02)までの続きとなります。ご覧ください。

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  桐華大学創立者・川合会長の文明論は1000年を射程とするものであり、大学論は、遠くヨーロッパ中世にその起源を遡るものであった。昌行ら桐華大学生たちの多くは、桐華大学を「新しい大学」として創造していくという気概と野心を抱いていた。しかし、具体的は何をどう積み上げていけば、川合のビジョンに近づけるのかを提示できる者は皆無であったといってよい。要するに、理想と現実とに引き裂かれていたと言ってよいだろう。雅実もまた、教員採用試験という「現実」に対峙していた。

 1988年、4年生になっていた雅実は、7月に採用試験、9月に゙教育実習をこなして大学に戻ってきた。試験では不採用となり、地元での就職を決めてきての帰京だった。一方の昌行は、1988年2月の大学院の試験に失敗しただけでなく、栄進センターの業務との間で苦悩していた。もうこれ以上、進路について迷っていられる余裕はないはずだ、結論を出さなくては、と。

 その「結論」は、不意にやってきた。FM放送で流れていた女性シンガーソングライターの曲が流れたその時、そうだ、あと一回、次を「最後」として試験を受けよう。アルバイトは必要最低限に止めよう。そう決めた昌行は、栄進センターの教務主任職を辞して、スポットで参加する契約に切り替えた。そして、合格して雅実に思いを伝えるのだ、と。

 1989年3月。雅実の卒業の日が近づいていた。昌行は、指導教官を変更し、試験に臨んだのだが、全くの準備不足がたたって不合格となった。

 「谷中君、何で事前に私の指導を素直に受けなかったのかな。あと1問でも答えてくれていたら、合格にすることができたのに。」

 昌行が指導教官として希望していた、教育学部長の沢井洋一が語った。つまりは、文学部から教育学部の講座に移ることを決めての受験だったのだ。

 「実はね、その年には教育社会学会の総会が桐華であってね。男子学生が入ってきてくれたら、バリバリこきつかってやろうと思ってたんだよ。」

 沢井は笑った。昌行は、その気持ちに応え切れなかったことが悔しく、残念に思われた。

 試験が終わったあと、昌行はアパートを引き払ってタニナカビルで家族と同居することになった。しばらくの間は求人誌を見る気にもなれず、社会人としての遅いスタートを切ったのは、1990年6月のことだった。昌行は26歳になっていたが、この頃はまだ家族はみな健康で、タニナカビルの経営も順調だった。しかし、昌行が就職に活路を見出そうとしていた同じ頃、予期せぬ激震が桐華教会を襲った。後に「宗門問題」と呼ばれることになった、日蓮宗本光寺派首脳らによる、川合会長追放の画策である。

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今回は以上といたします。お読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!

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