創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

創作「熾火Ⅱ」(04)

 

こんにちは。連続創作「熾火Ⅱ」の(04)をお届けいたします。桐華大学卒業の前後を中心に、前回までは書いてきました。今回は、昌行の信仰上の節目について描きます。

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 宗門問題として後に総括されることとなった一連の「事件」は、1990年の年末に端を発している。桐華教会は、1930年に日蓮宗本光寺派の在家信徒団体の一つとして発足、戦後急速に発展・拡大した宗教法人である。1990年12月、本光寺は桐華教会会長の川合に対し、在家信徒の代表である総講頭を罷免する旨通達してきた。それは川合会長が、本光寺指導部を軽んじているという言いがかりのようなもので、言わば川合を追放し、本光寺による桐華教会の直接支配を目論んだ「宣戦布告」であったと言ってもよい。このことで教会は動揺し、本光寺の支配を受け入れるものと、本光寺側は考えていたのである。しかし、教会は微動だにせず、むしろ結束を強めて「応戦」した。態度を硬化させた本光寺指導部は、教会全体を破門に附した。

 この一連の流れを、昌行は当初、本光寺と桐華教会との間で起きた、教義解釈の正統性を巡る対立と把握していた。しかし、この問題は信仰におけるアイデンティティの問題に直結してることをやがて知るようになる。すなわち、本尊の「下付」や葬儀等の儀式において聖職者が列席しないといった問題として顕在化したのであった。つまり信仰において、聖職者の権威が必要なのかどうかということである。聖職者が上で、信徒が下という図式にこだわり続けた本光寺側に対して、上下の差はなく平等であるとの立場を貫いた教会側という、極めて本質的な対立であったのだ。

 本尊問題については、教会から本尊が授与されることで、形式的には解決した。葬儀についても、「友人葬」として営まれるようになることで、一応の解決を見た。つまり、川合を追放した後での本光寺による教会支配の野望は潰えただけでなく、本光寺派は、以後衰亡していく結果となった。これらのことは、昌行の信仰心を「懐疑の溶鉱炉」で精錬することとなったのだ。

 本来桐華教会は、会長の川合と先代会長の西田克則とが、手造りで築き上げた組織である。今次の宗門問題とは、教会員と川合との「絆」をむしろ強める結果となった。そして昌行においては、表面上の活動内容を精査し、信仰をより内面化させることになった。活動内容の精査とは、後述を待つことになるが、支持政党であった朋友党への支援活動についての疑念として現れることになる。

 谷中昌行は、信仰においてはこのような軌跡を辿っていった。また、大学院への進学を断念した後、数か月のブランクを経て就職したサン・メディカルサービスでの勤務は順調であったと言ってよい。しかし、帰省して就職した千々和雅実とは、次第に疎遠になっていった。

 サン・メディカルサービスを辞したのは、昌行が30歳になったタイミングで、その時に勤めている会社での勤続をするかを考えようとしていたのを実行したに過ぎない。会社からの慰留もあって、結果的に勤務は若干延長することになったものの、必ずしも明確なビジョンを持てないままに退職したのだった。転職した先でうつ病を発した後のことは、既に述べてきた通りである。

 一方で、千々和雅実は実は教員採用試験を再受験し、合格を勝ち得ていた。そのことを昌行が知るのは、実に2002年のことであった。

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今回の記述はここまでといたします。お読みくださり、ありがとうございました。それではまた!

 

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