創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

執筆「中」記③ 「熾火」の由来について

こんにちは。

今までご説明する機会を見つけられないでいた、「熾火」(おきび)の語義について、今日は書いてみようと思います。

実は「おきび」にはもう一つ、「燠火」という書き方もあります。私が最初に見かけていたのは、こちらの表記であったことがわかりました。この2つ、どちらも炭火に関連する言葉なんだそうですが、意味は少し違っています。

①熾火

火勢が強くて赤く熱した状態の炭火のことで、「おきび」ともいう。

②燠火

薪や炭が燃え尽きて白くなりかけた状態のことで、「おき」ともいう。

私がある著作で見かけたのは②の表記だったことが判明したわけです。意味としても、「一見燃え尽きているように見えてはいるが、未だ内面に熱を秘めている状態」として使用していることが多いので、これも②に近いと感じています。しかし、表記としては①を使ってしまっていました。しかし、この「熾火」の表記のままで使っていこうと今は思っています。

この「熾火/燠火」を見かけたのは、批評家・随筆家の若松英輔さんの著作中で紹介されていた、岩崎航さんの詩集『点滴ポール 生き抜くという旗印』(ナナロク社)においてでした。

 

 

その詩を、以下に引用します。

誰もがある

いのちの奥底の

燠火は吹き消せない

消えたと思うのは

こころの 錯覚  (p.51)

つまり、「こころ」は「いのち」の真実を、時として見誤る。いのちの次元では、未だ熱をもっていることを、こころが感受できないことがあるということも言い当てているのだと思うのです。

こころが弱っていても、「いのち」は力強く息づいていることを、私たちはここから学ぶことができると思います。

          *       *       *

お読みくださいまして、ありがとうございました。今日は「実作」はお休みをいただこうと思います。それではまた!

 

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