創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

創作「熾火」(15)

こんにちは。連続創作「熾火」(15)をお届けいたします。病院に集められた家族たちは、朝7時に開いた集中治療室で義和に対面することになりました。

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 「ぼくたち家族は、朝7時に開いた集中治療室への入室が許され、父・義和と対面することになりました。ぼくの心持ちは、自分でも驚くほど静かでした。少なくとも、生きていてほしいと強く念じているようなことはなかったと思います。今にして振り返ると、そこで行われたのは、父がもはや生きているという状態ではないことを確認する手続きだったのでしょう。儀式ではありませんでした。担当者の口からは、ドラマのよう『ご臨終です』といった言葉はなかったのではないでしょうか。しかし、ぼくたちの間には、父が帰らぬ人であるとの認識が共有されていきました。

 始めに泣き出したのは滋で、続いて咲恵が泣き崩れました。おかしなもので、先に泣かれてしまうと、ぼくはますます冷静というか、平静になっていきました。峰子が泣いていたかは覚えがありません。

 しばらくして、ぼくは滋の後ろに立ちました。そして、滋越しに父のまぶたを広げて、『こいつがあんたを必死に支えてきたんだ。勘違いするなよ、ぼくじゃなかったんだからな』とひと芝居打ったのです。」

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 日が高くなっていった。事務的な手続きが進み、遺体は葬祭場へと移されていった。生前つき合いがあった主だった人たちへの連絡が行き渡り始めたのか、あいさつに訪ねてくる者もあった。火葬場が混雑していたため、約一週間先に決まったその日までは、冷凍の上で安置されることとなった。この約一週間は、特に桐華教会関係の訪問者たちから、丁重なお悔やみが述べられていった。

 ところが、問題は葬儀の費用だった。この前年には、光江の葬儀を一般的な形式で出せたのだが、今回は違っていた。生活保護の範囲では、その通夜を出せる費用は支給されなかったからだ。この頃既に桐華教会では、過度な規模での葬儀を出すことはしなくなっていたのだが、それでも血縁関係者に声をかけない訳にはいかない。昌行たちは検討を重ねて、告別式に相当する「送る会」を、桐華教会の地域施設で行うことを決めた。幸いなことに、教会の施設長は顔見知りであったため、この申し出はむしろ快諾された。一度は入院先に戻ることになった昇にも、送る会の前後には、外泊許可が下りることになった。

 火葬までの約一週間をどう過ごしていたのか、谷中家の人びとにはあまり記憶がない。慌ただしかったのか、静謐だったのか。暑かったのか、そうでもなかったのか。

 一つ確実に言えるのは、義和が入院した後の約3か月というものは、峰子との間に初めて訪れた、夫婦水入らずともいうべき時間であったということだ。仕事と育児に追われての日々であったことを、昌行はある痛切さを持って思い返していた。その3か月があったことは、もしかすると2人にとっては幸福なことだったかもしれないと彼は思っていた。

 葬儀の当日を迎え、峰子の兄妹たちも何人かが上京してくれていた。ただし、荼毘に付している間、休憩できる控室を用意することは、支給額の範囲ではできなかった。峰子は悔しい思いをしているだろうことを想像することしか、昌行にはできなかった。

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今回はここまでといたします。お読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!

 

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