創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

創作「熾火」11~16+あとがき:統合版(購入可能)

こんにちは。連続創作「熾火」は、おかげさまで「第一部」を完結させることができました。いただいたご支援に深く感謝いたします。ありがとうございました。

この記事では(11)から(16)と「あとがき」をまとめた「統合版」として作成いたしました。また、「お駄賃」を渡すような感覚でご購入も可能となっています。最後までお読みいただいた上で、お気に召していただけましたら購入手続きに進んでみてください。全体として7000文字程度となっています。

(01)から(10)の「統合版」はこちらです。

          *       *       *

(11)

 谷中家の4人の兄弟のうち、実に2人が病床にあった。長男の昌行はうつ病が既に5年間回復せず、次男の昇に至っては10年以上も精神病(のちの「統合失調症」)であって、光江の葬儀の時期には精神科病棟に入院していた。谷中家を公私に渡って支援していた人びとは、生活保護の受給を開始してはどうかという点で一致していた。問題は、入院している昇の扱いであり、所帯構成をどうするかという点だったが、昇の退院後に受給が開始できるよう準備を進めることとなった。

 実は、この検討に際しては、昌行は実質的にはほどんど、いや、全く関与していないと言ってよかった。うつの状態が思わしくなく、光江の葬儀に際しても、無理を押して参加したのであった。また、昇は主治医の許可を得て、一時退院しての臨席だった。

 2000年頃からの「うつは心の『風邪』」というキャンペーンの含意は、「風邪」なので「治るもの」という点にあったはずだが、昌行の病状は改善されなかった。同じところを行き来しているように見えていたのだ。派遣登録をしたり、アルバイト要員としてごく短期間働いたことはあったものの、すぐに勤務不能になってしまっていた。そのことは、昌行の自己評価を著しく損ねていった。

 その頃昌行が悟ったのは、日本の社会とは、人を使い捨てるものということだった。「即戦力募集」とは、聞こえはいいが、それは「当社では従業員に教育を施しません」ということと同義だったし、派遣が最先端の働き方であるという思い込ませは、不安定で辞めさせやすい職場へと変貌するきっかけとなっていた。使いたい時にだけ集め、用が済んだらそれで終わりという人材の「材」の字とは、材料の「材」であり、廃材の「材」であると昌行には感じ取られていた。

 昌行が再就職のために奮闘していた頃とは、若くて安くて、不安定(=辞めさせやすい)な人材活用へとシフトしていた時代であった。昌行の時給は、職場を移る毎に減っていったようなものだった。

 やがて昇の退院が決まり、それと前後して競売や退去の日程も決まっていった。転居先を決めるのに尽力したのは、咲恵と滋だった。所帯の構成も、義和・峰子・昇の3人所帯と、昌行の単身所帯とを分けることが決まった。滋はそのまま由美子と暮らし、咲恵も新しくアパートに転居することになっていった。そして2006年3月、弁護士にベーカリーの鍵を渡して、谷中家の人びとは、それぞれの居に移っていった。荷物をまとめる暇はなかった。それはほとんど、夜逃げとも言ってよいものだった。

          *       *       *

(12)

 谷中家の人びとが、かつてベーカリーを営んでいた区内に転居した上で生活保護を受給する生活に入り、一年が過ぎようとしていた。腰の高さほどもある大きさの犬を連れて散歩に出る人びととすれ違うような住宅街にあるアパートの岸野ハイツの一室を昌行は借りていた。周囲には、同じ岸野の表札がかかっている家が並んでいる。大家も岸野姓であった。アパートの管理会社の担当者は、いかにも二代目社長といった風情で、家賃のやり取りも地元の信金の口座への振り込みを指定されていた。つまり、代々住み着いている、この土地の名士たちが住む住宅街ということだ。隣家の人びととは、朝にゴミを出す時あいさつを交わす程度だったが、商店街のしがらみが煩わしかった昌行には、むしろ心地よく感じられていた。昌行の病状は、この頃少なからず安定していたように見えていた。

 弟の昇も、統合失調症特有の幻視があるものの、返済の重圧からの開放感を感じているようだった。滋は少しの間と言って、働きには出ずに気ままに振る舞っていた。咲恵は一人、カード会社のコールセンターで派遣社員として働いていた。

 この前後、義和は白内障の検査や補聴器の調整などで、いささか頻繁に病院に通っていた。2007年の4月のある日、義和たちのアパートを訪れていた昌行は、検査入院することになったと義和に告げられた。

 「最終的には、心臓のバイパス手術が必要らしいんだよ。しばらく入院することになるんだけど、よろしく頼むよ。」

 父の口調は穏やかだった。しかし、その穏やかさに昌行は反感を覚えていた。この一年余り、母の不在時に義和と昇の食事を手配していたのは昌行だったからだ。義和は、この生活に入ってからというもの、家事のほとんどについて手も口も出さなかった。齢七十を超えると、こうも動きが鈍くなるのかと、昌行は呆れていた。

 しかし、昌行をより呆れさせていたのは峰子だった。敬老会に入って、詩吟やらゲートボールやらで、文字通り飛び回っていたからだ。

 その昌行は、この頃はまだ社会復帰への意欲が持続していた。1枚配って5円というチラシのポスティングをしていたが、あまりの辛さと効率の悪さで続けられるものではないと判断した。

 その後義和は、近隣にある中規模の総合病院に入院していったが、日を置かず心臓の専門病院に転院することが決まった。心臓のほぼ半分が壊死していたのだった。

          *       *       *

(13)

 2007年7月、谷中義和は転院して心臓の手術を待っていた。

 「昨日、病室の窓から花火が見えてねえ。」

 足繁く義和を見舞っていた妻の峰子は、アパートで昌行に楽しげに語った。ちょうどその頃、昇は何度目かの再入院をしていた。排尿に手間取っていたため、尿管にカテーテルを挿入したのだが、尿道を傷つけてしまって高熱が出たためもあるが、統合失調症の病状がよくはなかったことが原因である。アパートに移って以来、常に昇を気遣っていた峰子の表情には、開放された穏やかさがあった。

 一方昌行は、2004年に産業カウンセラーの受講者で集まった際、姿を見せなかった雅実について思っていた。その後も連絡が取れていないのだが、昌行にとっての雅実は、3年を経てもなお、単に同窓の後輩である以上の存在であった。その思いはまだ、雅実に伝えられてはいないままだ。しかし、タニナカベーカリーからの退去や、光江の死去などの事情が昌行にはあったので、いつしか連絡が取れていない状況を受け容れてしまうようになっていた。

 峰子を始めとして、昌行の弟妹たちが義和の入院先から呼び出されたのは、8月4日の夕刻だったが、この時は特に何事もなく帰路についた。

 「お父さん、元気そうじゃないか。よかったね。手術って、いつになるんだ。」

 滋が口を開いた。37歳になっているとはいえ、末っ子の滋はこのような時、空気を変えてくれる。「退院したら、温泉にでも行きたいね。」と、滋は笑ったが、「ああ、それは無理っぽいなあ。」と続けたのだった。

 「こんな時なんだけど、いいかなあ。」

 言葉を継いだのは、咲恵だった。「いろいろ片づいたら、紹介したい人がいるんだよ。」

 それを峰子はうれしそうに見やっていた。タバコに火を着けた咲恵は、「できれば30代の内に結婚したいんだよね」と言った。

 「何だ、お母さんも知っていたんだ。」

 続いて滋が、おどけて言った。平穏を取り戻しつつある家族たちの表情を見て、昌行は安堵していた。

 「次は昇の退院だな。」

 一進一退を繰り返している昇を見ていて、統合失調症が治る種類の病気ではなく、一般的には寛解と呼ばれる状態を目指すものであることを峰子に説明してみているが、それを峰子が受け容れられると昌行は考えてはいなかった。じっくり取り組むしかない、長期戦だ。昌行は、そう考えていた。この時昌行は自覚できていなかったのだが、谷中家にあっては、昌行は常に長男という役割を負っているし、峰子も弟妹たちも、それを受け容れているのだった。

          *       *       *

(14)

 心臓疾患の手術のために入院した谷中義和を、妻の峰子は頻繁に見舞っていた。2007年8月4日には、峰子や入院中の昇以外の子らの計4人が呼び出されたが、その時は幸い大事には至らずに済んだ。手術の日取りがなかなか決まらないようだったが、峰子が義和を訪ねている間、2人は静謐な時間を共有していたに違いない。

 8月15日の午後、病院にあった峰子から、急な連絡があった。昇や義和の弟妹たちも連れて来るように言われているとの用件だった。4日のこともあったので、今回は昇に病院から外泊の許可が下りていた。4人の子らと、義和の弟・秀明、妹の美津子と芳恵らの全員が揃ったのはその日の深夜だった。その日から、当番を決めて義和の入院先で誰かが寝泊まりすることを皆で決めた。

 「奥様とお子様にご説明いたしますので、部屋を移ってくださいますか。」

 担当医からの申し出があったのは、8月17日の21時頃だったはずだ。義和はいま、集中治療室に入っている。開胸したが、心臓が半分以上壊死していた。手術は無事に済んではいるが、あとはご本人次第だと執刀医が語った。予定を繰り上げた、緊急の手術だったらしい。

 この席上でも滋が沈黙を破った。「あの、『ブラックジャック』みたいに直接心臓を握ってマッサージするってどうなんですかね。」

 担当医の顔が若干曇ったように昌行には思われた。しかし、滋は真剣に聞いていることを昌行は理解していた。峰子からも言葉がない。このままでは散会になってしまうが、まだ肝心なことが話されていなかった。昌行は意を決して、その場を引き取るように担当医に尋ねた。

 「要するに、どうなれば父は生還して、どうなると死亡ってことになるんでしょうか。」

 さすがにこれは峰子から聞かせるわけにはいかない。これは自分の役割だ。昌行には、そう確信されていた。

 「夜が明けるとご家族の皆さんが集中治療室に入れるようになります。朝7時です。その時に目を覚まされていたら・・・。」

 そうなのか。やはり自分が口火を切ったことが正解だったと、昌行は確信を深めた。

 あと9時間は長いなと、その時皆が思っただろうが、そう口にするものはいなかった。交代で寝泊まりするようになって既に3日めなので、皆が疲労し始めていた。口数の少なくなった滋の前で、努めて明るく振る舞おうとしていた秀明や美津子にも、困惑の表情が浮かんでいた。

 「コンビニでおにぎり買ってくるわ。お腹空いてるでしょう。」

 美津子が言ってくれた。深夜3時だった。

 「みんな、食べないとだめよ。」と、美津子は続けた。

 外の様子がわからなかったので、今が何時頃なのかは時計の表示だけが頼りだった。そして8月18日の午前7時が谷中家の人びとに訪れ、集中治療室に招き入れられた。

          *       *       *

(15)

 「ぼくたち家族は、朝7時に開いた集中治療室への入室が許され、父・義和と対面することになりました。ぼくの心持ちは、自分でも驚くほど静かでした。少なくとも、生きていてほしいと強く念じているようなことはなかったと思います。今にして振り返ると、そこで行われたのは、父がもはや生きているという状態ではないことを確認する手続きだったのでしょう。儀式ではありませんでした。担当者の口からは、ドラマのよう『ご臨終です』といった言葉はなかったのではないでしょうか。しかし、ぼくたちの間には、父が帰らぬ人であるとの認識が共有されていきました。

 始めに泣き出したのは滋で、続いて咲恵が泣き崩れました。おかしなもので、先に泣かれてしまうと、ぼくはますます冷静というか、平静になっていきました。峰子が泣いていたかは覚えがありません。

 しばらくして、ぼくは滋の後ろに立ちました。そして、滋越しに父のまぶたを広げて、『こいつがあんたを必死に支えてきたんだ。勘違いするなよ、ぼくじゃなかったんだからな』とひと芝居打ったのです。」

          *       *       *

 日が高くなっていった。事務的な手続きが進み、遺体は葬祭場へと移されていった。生前つき合いがあった主だった人たちへの連絡が行き渡り始めたのか、あいさつに訪ねてくる者もあった。火葬場が混雑していたため、約一週間先に決まったその日までは、冷凍の上で安置されることとなった。この約一週間は、特に桐華教会関係の訪問者たちから、丁重なお悔やみが述べられていった。

 ところが、問題は葬儀の費用だった。この前年には、光江の葬儀を一般的な形式で出せたのだが、今回は違っていた。生活保護の範囲では、その通夜を出せる費用は支給されなかったからだ。この頃既に桐華教会では、過度な規模での葬儀を出すことはしなくなっていたのだが、それでも血縁関係者に声をかけない訳にはいかない。昌行たちは検討を重ねて、告別式に相当する「送る会」を、桐華教会の地域施設で行うことを決めた。幸いなことに、教会の施設長は顔見知りであったため、この申し出はむしろ快諾された。一度は入院先に戻ることになった昇にも、送る会の前後には、外泊許可が下りることになった。

 火葬までの約一週間をどう過ごしていたのか、谷中家の人びとにはあまり記憶がない。慌ただしかったのか、静謐だったのか。暑かったのか、そうでもなかったのか。

 一つ確実に言えるのは、義和が入院した後の約3か月というものは、峰子との間に初めて訪れた、夫婦水入らずともいうべき時間であったということだ。仕事と育児に追われての日々であったことを、昌行はある痛切さを持って思い返していた。その3か月があったことは、もしかすると2人にとっては幸福なことだったかもしれないと彼は思っていた。

 葬儀の当日を迎え、峰子の兄妹たちも何人かが上京してくれていた。ただし、荼毘に付している間、休憩できる控室を用意することは、支給額の範囲ではできなかった。峰子は悔しい思いをしているだろうことを想像することしか、昌行にはできなかった。

          *       *       *

(16)

 斎場には主として親戚筋の者たちが集まってくれていたが、それ以外では、控え室が用意できない事情を話して帰ってもらうこともあった。

 遺骨を収めた後で、関係者たちはタクシーに分乗して桐華教会の地域施設へと向かった。「送る会」の会場には、斎場への来場を遠慮してもらった教会や商店街の知己が、既に集っていた。

 「あとはよろしく頼みます。」

 峰子は昌行に耳打ちした。

 遺骨や遺影を会場の前方に配すると、「送る会」が始まった。始めに故人を送るため、法華経の一部が読誦された。教会は仏教系の団体だが、僧侶の姿はなかった。友人同士で一切が執り行われるようになったのだ。何人かが挨拶を述べた後、最後に遺族を代表して、昌行が語った。

 「本日はお暑いところ、父・義和のためにこうしてたくさんの皆さまにお集まりいただき、本当にありがとうございました。母・峰子に代わりまして、私・昌行が一言御礼のごあいさつを述べさせていただきます。

 ご承知おきのとおり、私どもはタニナカベーカリーの店を畳んで、昨年より福祉によって生活をするようになりました。また、義和には4人もの子がありながら、遂に孫を抱かせることは叶いませんでした。しかしです。そのことは、義和が幸せではなかった、負けであったということを意味するものでしょうか。私はそうは思いません。

 入院して3か月の間、義和と峰子は何に追われることもなく、夫婦水入らずの時間を、ほとんど初めて過ごしていました。また、手術のあとも、全く苦しむことなく、極めて穏やかに逝きました。そのことは、義和は勝ったのだということの証しなのだと、私は確信しております。

 この父の姿が示してくれたものは、人間は人生を諦めて、負けを認め、受け入れることがない限り、人としての尊厳を失うことはないという、厳然とした事実だと思います。父は満足して霊山へと旅経ちました。日蓮大聖人からも、お褒めをいただいているものと思います。

 皆さま方に置かれましては、どうか、晴れやかに父を送っていただき、今後も変わらぬご指導を私ども谷中家にいただけますよう、心からお願い申し上げ、あいさつとさせていただきます。」

          *       *       *

 人びとが掃けたあと、滋が昌行に語りかけた。

 「愛知の連中が、いいあいさつだったとすごくほめてたよ。いつ原稿書いたんだよ。」

 「いや、書いてなんてないよ。その場で思いついたことだよ。」

 「マジか。かなわんなあ。」

 「何泣いてんだよ。」

 「泣いてねぇよ。」

 滋は微笑んだが、その目には光るものがあった。もちろん、昌行も涙声だった。

          *       *       *

あとがき

 自分の父と母たちを「物語」として書き留めていきたい。それは、自分の権利のようなものであるばかりか、その「使命」さえも自分は有していると、いつの頃からか考えるようになっていました。今回それを、極めて拙い形ではありますが、実行できたことを喜ばしく思っています。

 1回を約1000文字前後で書き進めていくという方法を得たのは偶然のことで、それはちょうど新聞連載の分量なんだそうです。このスタイルを掴んだことで、記述に弾みがつきました。全体としても、短編小説程度の分量になりました。

 谷中昌行は、病を得たことと、家族とともに生活保護を受けるようになったことから「何か」を得て、最終16話で語ったように、ある種の成長を果たしています。未だ筆力及ばず、それが唐突な印象しか残らなかったとすれば、それを第二部(「熾火Ⅱ」となるはずです)以降で回収できるようでありたいと考えています。いずれまた、お届けする日々を再開することになると思いますので、その節はどうぞよろしくお願い申し上げます。ご講読ありがとうございました。

          *       *       *

          *       *       *

「統合版」の全文は以上となります。お読みくださいまして、ありがとうございました。近々「熾火Ⅱ」として、第二部の掲載を開始いたします。なにとぞよろしくお願い申し上げます。

 

この続きはcodocで購入