創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

創作「見えない隣人~新・熾火:第一話」(01)

 

公営住宅の当選を引き当てた谷中峰子は、次男の昇とともに、慌ただしく隣区へと転出しようとしていた。2023年2月末のことである。この転出にあたり、峰子は長男の昌行にも同居を打診していた。しかし、15年以上も別々に暮らしてきていた同士が、急に生活を共にするというには無理があるというものだ。当然の如く、昌行はその申し出を断っていた。

「住宅が当たったというのは、いい話だと思うのよ。周りに聞いても、みんなそう言うの。あなたなら、きっとやっていけると思うわ」

昌行には、その「論法」が理解できなかったし、したいとも思っていなかった。独り身の気安さ以上に気にかけていたのは、主にオンラインで実施していた読書会のことであった。家族と同居するとなると、その実施は困難になると昌行には思われたのだ。しかし昌行は、峰子を説得できるとは思っていなかった。すでに高齢になり、思考や感情に頑なさが見えるようになっているし、そもそもが、峰子は「常に正しい」人であったからだ。峰子との関係で、昌行は折れた方がむしろ経済的だと考えることが多かったが、この時ばかりは意思を貫くことにしていた。そこで思い立ったのが、診断書を取って、転居が不可能であると「お墨付き」を出してもらうことだった。持病である双極性障害が、転居のストレスには耐えられないことにしようという算段だった。

転居に先立って、昌行は峰子が部屋の内覧に赴くのに付き添っていった。2022年の年末のことである。路線の終着駅であること、団地で暮らすのが初めてであることなど、懸念される材料は多々あったが、何よりも気になったのは、部屋が10階にあることだった。

それまでの居住地であれば、スーパーやコンビニが至近だったのだが、牛乳1パックを買うだけでも、10階から降りてこないといけないのだ。勢い、まとめ買いをして買い物に出る回数が減ることになるだろう。そうなると、運動量も減ることにならないか。それは、峰子と昇の健康を損ねることにならないか。昌行は、そういった懸念があると峰子たちに伝えてはみたが、結局転居の意思が翻ることはなかった。

また、公営住宅を内覧した際には、昌行は動悸と過呼吸に見舞われた。正確には、「見舞われたと感じた」ということなのだろうか。少なくとも主観的にはそうだったのだが、そもそも昌行は、動悸にせよ過呼吸にせよ、そうとわかって体験したことがなかったので、身体に起きた異常を、動悸なり過呼吸なりと判断できなかったのだ。昌行はこのことで、精神科の担当医に、転居は不可能との診断書を書いてもらう決意を固めたのだった。

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ここまでで、おおよそ1000文字となりましたので、次回以降に継続させたいと思います。お読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!