創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

創作「熾火」(07)

こんにちは。創作「熾火」(おきび)の(07)を書いてみました。

【前回まで】谷中昌行は、うつ病を発症してしまいましたが、休職中に受講していた初級産業カウンセラーの養成講座で、大学の後輩だった千々和雅実と再会します。

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2002年12月

自身がメンタルを患った経験を活かして、職場環境を向上させようと昌行は考えていた。テクニカル・サポートなどのコールセンター業務は、心理的・感情的な負荷が大きい。単なる愚痴を言ってガス抜きするだけではなく、もっと上手に仕事とつき合えないかと昌行は考えた。彼が学んでいた産業カウンセリングとは、職場にあっては産業医への「つなぎ役」を果たすものと考えていい。事前に「黄信号」を察知して、早めに適切な対処をしようというのが、その職責の一つである。

2000年前後には、心理職資格の制度化が本格的になるなどの大きな動きがあった。産業カウンセラーと言っても、立場上では補助的なものと考えてよく、勤務者に精神科やメンタル・クリニックの受診を助言する程度のことがせいぜいであったとも言える。その意味では、昌行はこの資格には過大とも言える期待を抱いていたと言ってよかった。昌行は、よくも悪くも真面目な理想家だったのだ。この制度を職場で活用できれば、自分がうつ病になった経験も活かせるものと考えていた。

一方、雅実は大学を卒業した翌々年に、故郷の長崎で教職に就いていた。1991年のことである。しかし、雅実もまた重責の下で体調を崩してしまう。結婚した後に知己を得て、神奈川のフリースクールに移ったのは、昌行がサプライ・システムズに就いた1996年のことだった。念願していた通りに教職に就いている雅実が、昌行にはうれしかった。

「谷中さん、勉強はどうですか?」

「この前なんか、ロールプレイングでクライアント役の人の悩みを解決しちゃったよ」

そう言って、昌行は笑ってみせた。実際、昌行は実習で高い適応力を見せていた。それは、コールセンターの業務で受けていた訓練が生きたからかもしれない。昌行は、知らないうちに他人に話を聞く力が身についていたのだ。

「このままプロになっちゃうのもいいかもしれませんね」

「いやいや、カウンセラーの開業だなんて、とてもとても。それより、復職できても、この実習を活かせるとは限らないだろうしね」

「いいカウンセラーさんになれそうな気がするんですけどね。もったいないよなあ」

「ありがと」

昌行の心を、温かいものが満たしていた。

2002年冬――。その産業カウンセラーの資格試験が実施された。雅実は午前中、昌行は午後の実技試験を受験した。

「お待たせしました」

「ちょっと待ったかな。どうでしたか?」

「上ずった答えしかできなかった。『自分の経験を活かして、メンタルヘルスの向上に役に立ちたいです』なんて言っちゃったしね。筆記はよくできてたんだけどなあ。千々和さんはどうなの?」

「わかりませんよ・・・」

「あのね」

「何でしょう?」

「今、職場に復職を打診しているんだ」

雅実は、うれしそうにして見せたが、口には出さない不安も抱えていた。

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【24/05/16】

若干の語句の修正をした上で、見出しをつけ直しました。