創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

創作「熾火」(10)

こんにちは。創作「熾火」(おきび)も、いよいよ10回目となりました。さまざまな応援をいただき、ありがとうございます。今後とも、ぜひよろしくお願いいたします。

前回では、谷中家はベーカリーが経営不振であったことだけではなく、さまざまな「軋み」を抱えていることを書きました。そして、昌行の祖母・光江が逝去しました。

(23/08/21)

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2005年7月

祖母の光江が逝いた。享年91歳なので、もはや大往生と言えるのだが、昌行は自身の病のため、特老に入っていた光江の最晩年の記憶はほとんどなかった。かえって、遠ざけてさえいた。

葬儀は夏であった。そこに集まった谷中姓の人びとが、義和から見た場合の本家筋にあたることを、この時改めて昌行は理解した。気忙しく、かつ気丈に立ち振る舞っていたのは、むしろ峰子であった。義和の弟・秀明に献杯のあいさつをさせた上で、本家の連中と顔をつないで回っていた。その峰子に比して、義和や秀明は、何とも頼りなげに昌行には映った。そして「次」、つまり義和が逝く時には、自分が峰子に代わって遺族を代表してあいさつするだろうと直感していた。

 さて谷中家は、一家全員が法華経系の仏教団体・桐華教会に入信していたが、中でも光江が熱心な信徒だった。昌行の記憶には、仏壇の前に端座して、静かに「南無妙法蓮華経」の題目を念じていた姿があった。光江には学はないものと昌行には思われたのだが、幼い昌行の鼻炎が治るよう、「鼻の流通がよくなりますように」と常々念じていた姿が思い起こされた。そのおかげとは思えないものの、長じた昌行が鼻炎に悩まされることはなかった。

「ああちゃん、流通なんて小難しい言葉、どこで覚えたんだよ。冷たくしてて、ごめんな」

にぎやかな語らいの場にあって、幼い日と同じ呼び方で、昌行は一人静かに光江に語りかけていた。

初期の胃がんのために入院していた光江に、桐華中学合格の報を携えて、母と見舞ったという記憶も昌行にはあった。峰子と光江は、この進学について熱心だった。元来「おトラ婆さん」だった光江が、すっかり大人しくなってしまったのは、退院後のことだ。そのような思い出もまた、去来していった。光江の死去は、谷中家にとってはむしろ求心力として作用したことは、間違いなかった。

しかし、谷中家の人びとにはこの辺りまでが限界だったのかもしれない。昌行の預かり知らぬところで、ベーカリーの店舗ビルを競売にかける話が進んでいたのだ。義和・峰子夫妻と滋がその話の中心にあったが、桐華教会が支援している朋友党の区議や都議、また、同じ桐華教会の信徒であった弁護士らとの協議が進められていた。もうこれ以上はがんばる必要はない、生活保護の受給を選択することは恥ずかしいことではないと諭されていた。協議の中心課題は、まさにそこにあったのだ。

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【24/05/18】

note「創作大賞」に応募のため、若干の語句を修正の上、見出しをつけ直しました。