創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

創作「見えない隣人~新・熾火:第一話」(02)

 

昌行が、転居を実質拒否するために診断書を取ろうとしていたことには、もう一つ理由があった。それは、転居先として予定していた公営住宅が3人用の住居であったことだ。つまり、ここには「3人」でないと入居できないと聞いているのだ。なので、いっとき峰子は、短期間でもいいから3人で住まわって、しかるべきタイミングで昌行が転出すればよいと考えていたのだ。昌行が猛反対していたのは、まさにこの点であった。転居を甘く考え過ぎていると昌行は考えていた。

内覧を経たあと、住宅公団側に診断書を出すことで、2人での転居も認めさるを得ないのではないというのが、昌行は考えだった。当初、この診断書を出すというのは名目だけのことと考えていたのだが、実際には昌行の身体までもが転居を拒絶していたのだ。

「これなら公団側にも申開きが立つでしょうね」

昌行の若い主治医である橋本が語りかけた。2023年の年度末に退職を決めているという橋本は、昌行が転居騒動に巻き込まれていることを気にかけていた。

「退職する前に、多少お役に立てたようでよかったです」

「いえいえ、先生にはお世話になりまして。カウンセリングについては、進藤さんにはこれで終了させるとお話しをさしあげました。効果が疑わしいというよりかは、もう必要もないんじゃないかと思っていたので、この際思い切って終了としました」

併設されていた臨床心理室でのカウンセリングを、昌行は終了されることを決めていたのだ。

「先生のこれからのご活躍、お祈りしてます。本当にありがとうございました」

昌行は診察室を後にしていった。

その翌日、昌行が峰子と昇のアパートを訪ねると、ちょうど滋もいて、夕食を共にしていたところだった。

「何も診断書まで出してもらわなくてもよかったんじゃないの? だいたい、引っ越せばそのうち慣れちゃうわよ」

「だから、その話はもう断っているでしょう。あんな街に引っ越していって、二人が生活できるのかも気にかかるんだよね。引っ越しを甘く見過ぎてるよ」

昌行は多少語気を強めて言った。

「いつまでも元気でいられるつもりでいると、困ると思うよ。もしもの時、昇一人になってさ、生活できるかわからないでしょう」

しばらくの間、言い合いが続いた。

「もうここに居るのは嫌なのよ」

峰子の口から思わぬ言葉がこぼれた。隣人や、桐華教会の人々とのつき合いに、多少以上の疲れを感じているらしい。そうなのか、ここに来てから、ずっとそれをがまんしてきたのか・・・。珍しく弱気を見せた峰子に、昌行たちは老い以外のものも感じたのだった。家業のタニナカ・ベーカリーをたたみ、福祉の受給をするにあたって中心的に振る舞ってきたこと、夫の義和を喪ったこと、統合失調症を抱えた昇をサポートしてきたこと――。母には負担だったんだな、と。

「ま、食器を片づけようか」

滋が言ったのを聞いて、峰子たちは食卓を片づけ始めた。

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今回はここまでです。お読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!