創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

創作「見えない隣人~新・熾火:第三話」(02)

 

前夫・須藤正樹との離婚が成立し、めぐみと英はその呪縛から解放されたと言ってもよかろう。めぐみが「しずく」に参加して4年が過ぎた2015年、めぐみは31歳、英は10歳になっていた。由紀江と雅実は、めぐみのケアによく当たっていたが、彼女に落とされていた正樹の影の濃さについて、正しく認識し、評価するには、まだ知識も経験も未熟だったとしか言いようがなかった。正樹がめぐみに落としていた影は、英の不登校としても現象していた。

正樹との離婚が成立する前年の2014年1月、めぐみが処方薬を過剰に服薬して、病院に緊急搬送されるという事件があった。倒れていためぐみを発見したのは、無論息子の英だった。めぐみが意識を取り戻すまでの間、英の幼い手を掴んだまま離さなかったのは、由紀江から聞いて病院に駆けつけた吉岡啓であった。

この事件を機として、吉岡は児童福祉や教育、虐待を受けた者へのケアなどについて、猛然と学び始めるようになった。その後吉岡は、塾講師として再就職をした傍らで、放送大学の大学院を卒業し、臨床心理士として職を得るようになる。その吉岡を指導していたのは、かつて昌行が師事することを希望していた沢井洋一教授の弟子筋に当たる松井直人だった。沢井から松井、そして吉岡へとバトンがつながれたことを、この時はまだ、吉岡も昌行も知る由もなかった。

そうした吉岡の変化は誰の眼にも明らかであったが、それを「わがこと」として受け止めていたのは、めぐみであった。深い感謝と尊敬の念を自分が抱いていることを承知はしていたが、吉岡の前では、まず英の母であることを優先してめぐみは振る舞っていた。その二人に、いずれ春が訪れるだろうことを確信し、また、念じて止まなかったのが雅実である。

「雅実さん、最近うれしそうな顔してることが多いけど、何かいいことあったようだね」

「そうなの。でも、内緒」

「ヒントくらい、いいじゃないか」

「ふふ、それは野暮ってもんよ、昌行さん」

2015年には、8月の安保法制デモと法案の成立があった。その翌年の2016年11月には、トランプ氏がアメリカ大統領に当選する。昌行にとっては世の中の動向が気にかかることが多くなっていった。その一方、長く昌行を診ていた主治医の桧山医師の後を引き継いだ高岡美咲医師や浜口佳子カウンセラーとともに、双極性障害としての病識を深めていくことに努めていた。

そしてこの後、「しずく」は大きな転機を迎えることになる。2019年の新型コロナウィルス感染症の世界的な蔓延、いわゆる「コロナ禍」であった。また、5月に年号が令和に代わると、人々はあたかも「新しい時代」が到来したかのようにそれを受け止めていたが、昌行はそれに違和感を感じてもいたのだった。

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(02)はここまでです。最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!

※24/04/14、若干修正を加えました。