創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

創作「見えない隣人~新・熾火:第二話」(03)

 

「あのね、」

口調こそ穏やかそうであったが、昌行が語ろうとしていることには、一種の不快感を伴っているだろうことを、雅実は見逃していなかった。

「宗教学者にさ、島崎裕之っているでしょ」

「いるよね」

「彼がね、『親が桐華教会』って本を出しているんだよ。もちろん、島崎さんがこのタイトルをつけたとは考えにくいんだけどね。ぼくは明らかに、そこには揶揄っていうか、小馬鹿にしているような口調を感じてるんだよな」

「それは何と関係あるのかなあ」

「この本はね、『宗教二世』についても言及していると思うの。羽場さんが銃撃されて、一気にこの宗教二世って注目されたでしょ。でもね、同じ言葉を使っていても、その内容が違っていることもあると思うんですよ」

「と言うと?」

「定義的にはね、信仰を持った家庭に生まれたり育ったりしている人のことを宗教二世って考えるようだけどね。ぼくらなんかは、爺さんや婆さんの代から教会員なわけでしょ。とは言っても、それを「三世」って言うのかっていうとそうでもないみたいなんだ」

「そうなの?」

「ぼくの見立てなんだけど、この宗教二世って捉え方のポイントは、本人に意思とは別にその宗教に入信してるっていうか、させられてるってところにあると思うんだよね」

「そこから生きづらさの問題とか出てくるからね」

「さすが。ぼくらのようなのと、羽場さんを撃った容疑者とは、同じ宗教二世って括りにできないと思うんだよね」

ヒカリ連合への批判が、宗教全般へのバッシングへと、際限なく広がっていくかもしれない。昌行の懸念はそこにあった。問題を発見し、提起するのも言葉の役割だが、注意深く運用しないと、たやすく暴力に転化するのも、言葉である。そんなことを昌行は語ってみせた。昌行には、人間にとって宗教、少なくとも「宗教性」は、まだ当分の間必要なものであるだろうという、信念めいたものがあった。宗教二世という言葉は、問題発見的に使われることで救われる人が確かにいる。しかしその口調の「強さ」が押し流してしまうこともまたあるのだと、昌行は雅実に語った。

「もう寝なくちゃね、昌行さん」

「うん」

「明日また続きを聞かせてね。私、まだ読まないといけないものがあるから」

「そうだったね。ごめん、引き止めちゃって」

「いいの。昌行さん、元気そうでよかった」

「もうこっちは、そろそろ早朝だけどね」

過剰な自意識と防衛的な反応の結果なのかもしれない。声を挙げつつある宗教二世の当事者たちとも、心を通わさないといけないだろう。またそれと共に、いとこの聡子のような者を、信仰の継承の「失敗」と考えてしまうのはよくないだろう。フィンランドへオープンダイアローグの研修のために赴いていた雅実と話すことができてよかった。昌行はそう考えていた。

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今回はここまでといたします。お読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!