創作シリーズ「熾火」

敗れざる者の胸奥に灯る《いのち》の灯り――。

創作「熾火Ⅲ」(01)

 

今回から、連続創作「熾火Ⅲ」本編をお届けできることとなりました。本当にありがとうございます。今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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 2011年2月、千々和雅実は新卒時の勤務先での上司・高木陽子の娘・美恵子の結婚式に出席するため、長崎にいた。簡素ながら、参加者によく祝福された式であった。ここにも、陽子の考え方、いや、人生観というものが表れていたと、雅実には感じられた。

 「いやぁ、いい式だったなぁ。泣いた泣いた」

 「お母さんも泣いてたでしょ」と同僚の中井由紀江が語った。

 「そりゃそうよ、女手ひとつで育てた愛娘だもんね。陽子さん、すてきなお母さんだったよ、うん。さぁてと、仕事に戻らなくちゃ」

 多忙な年度末に向かいつつあったが、雅実は晴れやかな面持ちだった。オンライン経由で当事者会「しずく」に参加するようになった新田壮介や、地域生活支援センターで貼り出していたチラシを見た吉岡啓(よしおか・ひらく)からの問い合わせなど、少しずつ参加の輪が広がってきていた。

 30歳だという吉岡は、双極性障害を疑っているうつ病の当事者である。大学に進んですぐにうつの症状を発した吉岡は、既に10年以上短期のアルバイト等を転々としながら独り暮らしをしている男性である。「うつ病は心の風邪」という以上、うつ病は治るものと捉えていた吉岡は、病の長期化を疑問に感じていた。そんな折、主治医から診断を再度見直したいとの申し入れがあったという。吉岡が複雑な思いでいることは、言うまでもないだろう。

 かつては「躁うつ病」とも呼ばれていたこの疾患は、診断が難しいものとして知られている。うつの症状が表れている当事者は、それを何とかしたい、逃れたいとして、医療機関を訪ねることはあり得ることだ。また、周囲から心配されることもあるだろう。しかし、それが躁の状態ではどうかと言うと、本人も周囲も、病気が軽快化したり、治ったものと考えることがしばしばなのである。つまり、それが病気の表れとして本人や周囲には感じ取られにくいのだ。それで通院を止めてしまうことすらある、やっかいな病気でなのである。吉岡はしかし、出版物などで、このように診断を誤りかねない状況がありうることをよく把握していた。由紀江は昌行の様子を見ていて、吉岡と似ていると感じていたのだが、それを昌行に伝えることはまだなかった。

*       *       *

 3月となり、昌行の誕生日が近づいてきていた。雅実から再三促されて、この日は、2人で昌行の自室で過ごすことをようやく決心していた。昌行が自分の部屋に女性を迎え入れるのは、実にこれが初めてのことである。それを伝えられて、うろたえたのはむしろ雅実の方だった。

 「じゃあ、明日。センターは午前で切り上げるから、駅の北口で会おうか。12時半には会えると思うけど、早くないかな」

 「休み取ってあるから、大丈夫。あの、もう一回聞くけど、本当に私、行っていいの」

 「来たいって言ったのは、あなただからね」

 昌行は笑おうとしてみせたが、ぎこちない笑顔にしかならなかった。

 「雅実さんだから、来てほしいんだって・・・」

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今回はここまでといたします。お読みくださいまして、ありがとうございました。